「私たちが文部省に行ったら、徹底的に国立大病院を改革してみせませす」「事務は全部外注にしてしまえばいい」―。国立大学付属病院の検査部長たちから、肥大化した事務部門や技師不足に、次々と不満の声が上がった。一九九八(平成十)年六月、北海道旭川市で開かれた全国国立大学中央検査部会議。検査部の医師、技師らの批判の矛先は、文部官僚が大学病院を事実上支配し、効率的な運営を阻んでいることに向けられていた。
「事務機構がでたらめ。官僚の弊害が、もろに出てきてる」。九州地方の検査部長は、かつて在籍した私立大学と比較しながら、専門性に欠ける事務官の実態を批判した。「事務部長は明らかに大学病院を見ていない」「病院の本質がまったく分かっていない」。多くの幹部事務官は二、三年のローテーションで大学病院に配属されては去っていく。顔は病院長より虎ノ門(文部省)に向いている。そんな人事異動への強烈な不快感も示された。
出席した検査部長の一人(当時)は、文部省に改善を申し入れたがかなわなかったという。「全然通用しなかった。大学の改革の前に文部省の改革をやれと言いたい」と、今も憤まんやる方ない様子だ。
◇
九七年三月、東京大学医学部付属病院の医師が、同病院の改革案を手に東京・平河町の行政改革会議事務局長(当時)・水野清(七五)の事務所を訪れた。
『経理は厳密に単年度会計であるが故にさまざまなひずみを生じている』『形式的には病院長が責任者で、実務は事務部(文部省)という二重構造にならざるを得ない』―。改革案ではこうした問題点を指摘して、(1)単年度会計の廃止(2)国家公務員からの離脱(3)病院の自己責任の確立(4)事務組織への専門性導入―の四点の実現を求めていた。
病院に所属する三十人の教授のうち、賛同者は十三人。半数以下ではあるが、次期医学部長と次期病院長を含む"主流派"による「独立宣言」は、文部省や他大学はもちろん、東大内部にも驚きの波紋を広げた。
「付属病院は予算を通じて行政に支配され、官僚に迎合する体質が染みついている。実態は文部省病院ですよ」。医師の一人は指摘する。「がんじがらめの規制を何とかしようと、まず数人が話し合った。教授会にかけてもまとまるとは思えないので、その中の有志でやったんです」
文部省の反応は素早かった。翌日には医学教育課長(当時)の寺脇研(四七)が、間もなく任期の終わる医学部長と病院長を同省に呼んだ。「個人で発言するのは自由だが、次期学部長と次期病院長が名を連ねているのはいかがなものか。公的な立場だと誤解を招くのではないか」。寺脇はこう、説明を求めたという。
寺脇はその直前、全国国立大学病院長会議で「財政面から国立大学の民営化の動きがある。対抗するため理論、現実面の検討をしてください」と話したばかりだった。その方針と真っ向から対立する改革案は、同省としてとうてい承服できるものではなかった。
翌々日の医学部教授会では、早くも「遺憾の意」が表明され、同年四月初めには、新医学部長と新病院長が同省高等教育局長あてに「てん末書」を出した。「無知や誤解に基づく記述がいくつも認められる」「民営化を求めたものと解釈された意味において表現が不適切」と、自己批判のオンパレードだった。
「必ず続く人が出ると思い、病院を追われる覚悟で訴えたがダメだった。大変な挫折を味わった」と、有志の一人は残念がる。
現在の独立行政法人(日本版エージェンシー)化に通じる東大医学部有志の" 反乱"はこうして、あっけなくつぶれた。だが、行革の課程で、国立大の独立行政法人化が取り上げられる一つの火種にはなった。
水野はこう証言する。「東大病院の話が、国立大の独立行政法人化を考えるきっかけだった。それまで大学のことはよく分からなかったんだよ」
◇
明治期に大学ができて以来、最大の変革ともいわれる国立大の独立行政法人化決定が秒読み段階に入った。企画立案部門と現業部門を分け、現業部門を行政機構から分離する英国型エージェンシーでは、国立大はとうてい対象にはなり得ない。日本の国立大を独立法人化する話はなぜ持ち上がったのか。国立大はどう変わるのか。流れを振り返り、疑問の糸を少しでもほぐしてみたい。
(文中敬称略)
『文部省からの独立』を求めた東大病院有志による"直訴"事件は、文部省や学内の反対でつぶれた。しかし同大医学部は一九九七(平成九)年八月、正式に改革案を出し、事実上、独立行政法人化支持に踏み切った。直訴を受けていた行革会議事務局長(当時)の水野清(七五)も同年十月、東大と京大を先行して独法化する案を打ち出した。
東大病院の火種は、再び燃えかけたが、行革会議では結局合意に至らず、同年十二月の最終報告では「大学の自主性を尊重しつつ、研究・教育の質的向上を図るという長期的視野に立った検討を行うべき」だとして、国立大学を独法化の検討対象から外した。
「"長期的視野"というのは、やらないのと同じ。事実上消えたと思った」。会議の中心メンバーで、現在も中央省庁等改革推進本部顧問会議に残る、東北大教授の藤田宙靖(六四)は振り返る。水野も「(含みを持たせた表現は)私の顔を立てて入れてくれたようなものだ」といったんあきらめたことを認める。
しかし「消えた話」は突然、復活する。「政治の動きとして、定員削減の話が出たことが大きい」と、藤田は指摘する。行革会議の最終報告では、国家公務員を十年間で一割、削減することになっていた。それが小渕政権の方針で二割に増え、自民、自由両党の合意で昨年一月には二五%にかさ上げされた。
そんなに多くの官僚を減らすのは、事実上不可能で、当初の一〇%以外は独法化による削減分とされた。その削減の対象として政府が目を付けたのが、十二万五千人もの定員を抱える国立大学だった。
◇
九八年の暮れから、翌年一月にかけて、文部大臣(当時)の有馬朗人(六九)と総務庁長官(同)の太田誠一(五四)は三たび会談した。官僚を交えない「差し」の話し合い。太田から話を持ちかけ、自らが会員となっている東京都内のレストランや国会内の空き部屋で、有馬に国立大学を独立行政法人化させるよう迫った。
「長期的視野とは、どのくらいの期間か」。国立大の独法化に執念を燃やす太田が尋ねた。「長ければ長いほどいい」と考えた有馬が出した答えは「二〇〇八年」。太田は納得せず「十年後まで待てない。政治家にとって、やるというのはせいぜい一年先の話だ」と、有馬を追い込んだ。
「経済面は保障する」「国立大学だけ削減しないわけにはいかない」。太田は二五%の定員削減をちらつかせながら、さまざまな口説き文句を連らねたといわれる。「決定権はこちらにあるんですよ」。最後は、こう有馬に決断を迫り「二〇〇三年」までに結論を出すことで、二人の大臣は折り合いを付けた。
「大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、平成十五年までに結論を得る」。九九年一月二十六日に決定した「中央省庁等改革にかかわる大綱」には、明確にタイムリミットが盛り込まれた。国立大独法化への流れは、このとき形作られた。
◇
「独立行政法人化は効率化の観点から行われるもので、大学の教育研究になじまない」「国立以上に財政支援がなされるとはとうてい考えられない」「大臣からの中期目標の提示、中期計画の認可等の仕組みは、大学の教育研究活動の自主性に反する」―。水野が東大と京大の独法化案を出した九七年当時、有馬はこう反論、独法化に強く抵抗していた。その一年後、小渕政権下で文相となっていた有馬が宗旨変えしたのはなぜか。
「あの時は、独法化は民営化の第一歩だと思っていた」。有馬はそう説明する。ところが行革委の最終段階で多くの機関が「国家公務員型」となった。国が人件費を賄うなら反対の理由は一つ消える。「公務員型なら、大学改革の選択としてあり得ると思っていた」と有馬は言う。
先進各国の大学の多くは法人格を持っている。国立大のままでは、細かい規制に縛られる。文部省と直接の関係を切り、教育や研究についての方策を自律的に考えて運営するのも悪くない・・・。次第にそう考えるようになっていた有馬が、太田との会談で妥協し、独法化へと踏み出すのは、自然な帰結だった。
(文中敬称略)
一九九九(平成十一)年三月十一日、文部省と国大協は、同省内でひそかに会談をもった。文部省側は高等教育局長の佐々木正峰(五八)ら三幹部、国大協は会長の東京大学長、蓮実重彦(六三)ら四幹部が顔をそろえた。
「二五%の定員削減に関連して、国立大学としても設置形態や独立行政法人化について検討を始めてはどうか」。この席で、文部省側はこう打診をした。「二〇〇三年までというのは時間的余裕があるように思われるが、実際には定員削減が二〇〇一年一月から始まる。二〇〇〇年度の前半から夏頃までに、対応を決めないといけない」
慎重な表現ながら、文部省はこの段階で、定員削減と絡めて、国大協に独法化の検討を勧めていた。
「もはや何もせずに放置するわけにはいかなくなった」。三月十八日に開かれた国大協の理事会で、蓮実は私的に検討を始めることで各理事の一任を取り付けた。しかし「当面の正式な議題とはせず、周辺状況の変化や推移を見極める」として、全体での議論は先送りにした。
蓮実は副会長(当時)の東北大学長、阿部博之(六三)らに相談し、名古屋大学長の松尾稔(六三)に検討をゆだねることを決めた。
四月上旬、蓮実の依頼を受けた松尾は自ら四人のメンバーを決め、極秘の検討を始めた。一カ月半に四回、松尾がかつて会長だった東京・四谷の土木学会の会議室に集まっては、政府方針の問題点を分析した。
松尾の頭文字を取り「M研究会」。五人は「毎日のように、十いくつもの会議が開かれている」(松尾)中に紛れて、議論を繰り広げた。「私心を捨てて、毎日のようにEメールをやりとりしながら、仕上げていった。日本の教育・研究の将来がどうなるべきか、本気で話し合った」と、松尾は振り返る。
こうしてできあがった「松尾リポート」は、国立大学のあり方や独法化の問題点をまとめてあり、以後の検討の土台となった。
「国大協としてどう対処すべきか、独法化に関してどんな条件が考えられるか、しかるべき組織で検討いただかねばならない」。あらがいがたい政治の流れを感じた蓮実は九九年六月十六日、国大協の総会でようやく独法化問題の検討を提案し、阿部が委員長を務める委員会が担当に決まった。蓮実はそのとき初めて「ポケットに持っているこのリポートをたたき台に提供する」と、松尾リポートの存在を明かした。
「新しい自主・自律体制の確立と大学にふさわしい設置形態のあり方の検討が真剣に行われるべき時期に来ている。教育・研究の質の向上を図る観点に立ってできる限り速やかに検討を行いたい」。文相(当時)の有馬朗人(六九)が、国立大の学長たちに公式に独法化の検討開始を伝えたのは、その翌日のことだった。
◇
国大協の動きが水面下にあるころ、東京、京都、名古屋など旧七帝大の副学長たちは、独自の検討作業を進めていた。九九年三月、東北大の発案で始まった「懇談会」。ここには副学長のほか、各大学の教授が一人ずつ参加し、一時は声明を出す計画もあった。
国立大の存否にかかわる大問題を前にしながら、国大協は表向き沈黙を守っている。大学人として、もっとオープンな議論を進めるべきだというのが、積極派の副学長の意見だった。
「勉強会をつくって議論して(独法化問題の)ひな型をつくろうとした。できれば国大協や文部省に提案するシンクタンク的な機能を持ちたかった」。副学長の一人は、こう証言する。中央省庁等改革推進本部顧問会議のメンバーの東北大教授、藤田宙靖(五九)を呼び、じかに独法化のレクチャーを受けたこともあった。
しかし、副学長たちのもくろみは実現せず、九九年秋以降、会は単なる情報交換の場に後退していく。
「当初、意気込んでいたものとは違ってしまった。個人の立場ならいいが、副学長は大学の看板を背負っており、ブレーキがかかってしまった」(副学長の一人)。強者である旧帝大だけ勝手にやっている―。他大学のそんな目を副学長たちは恐れ、声明やひな型づくりを断念した。
政治の動きに応じて着々と検討を進める文部省に対して、国立大学側の出遅れは明らかだった。内部で検討を進めるだけで世論に訴えることもなく、その間に独法化への流れは加速していった。
(文中敬称略)
「これは議論の始まりなのか、それとも言いっぱなしで終わってしまうものなのか」。国立大学の独立行政法人化について、文部省は一九九九(平成十一) 年八月から九月にかけて識者懇談会を開いた。五回に及ぶ話し合いの終盤、複数のメンバーから、こんな疑問の声が上がった。「終わりではなく、これから始まる」「文部省対他省庁の戦いに勝てるかどうかが問題だ」。文相(当時)の有馬朗人(六九)や同省の幹部は、そう口をそろえた。
同省が提示した懇談事項は(1)国立大学等の運営上の諸課題(2)今後国立大学等に期待される役割(3)大学評価のあり方(4)その他―の四点。「意見を施策に生かす」のが目的だとされたが、同省はすでに「独立行政法人化は不可避」だとみて、法人化の基本線となる「通則法」を国立大に当てはめるための修正案づくりに着手していた。
冒頭の問いかけは、「条件付き独法化」へと走り始めていた、そんな同省の姿勢をいぶかるものだった。
ノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈(七四)をはじめ、国立大学協会長経験者の阿部謹也(六四)、井村裕夫(六九)、田中郁三(七四)、吉川弘之(六六)、元大学審議会会長の石川忠雄(七八)、元宇宙科学研究所所長の小田稔(七六)、哲学者の梅原猛(七四)。高等教育に一家言を持つ重鎮たちは、それでも活発に意見を交換した。
議事録からは「教育機関の改革は慎重に進める必要はあるが、改革が刺激を生む点では評価できる」「独法化の狙いは、大学に自主性を与えるとともに、競争的な環境をつくって教育研究の質の向上を図る点にある」など、独法化に前向きな発言が目立つ。通則法の問題点を挙げる声もあるが、反対の旗色を明らかにした阿部と吉川を除いては、独法化を前提に条件を議論する色が濃かった。
「知の巨星たち」を集めた懇談会は、同省の独法化路線にお墨付きを得るためのものだったのか。
「文部省の考えをきちんと伝えて、それでいいかどうか判断を求めた。(独法化容認の)アリバイづくりにしたことはない」と、事務次官の佐藤禎一(五八) は強く否定する。だが、有馬の説明は少しニュアンスが異なる。「結果的に" 終わり"だったことは事実だ。徹底的な反対があれば変わったかもしれないが・・・」
◇
検討が遅れていた国立大学協会では、東北大学長・阿部博之(六三)、名古屋大学長・松尾稔(六三)らが、夏休みを返上して作業を進め、八月中には通則法の問題点を洗い出していた。九月十三日の臨時総会に報告された「中間報告」では、通則法に反対する姿勢を保ちながら、同法の問題点を列挙。修正するには「特例法」を制定するか、大学を対象とした「国立大学法」を設けるべきだと提言した。
大学側には「国家公務員の定員削減」が独法化の発端だったという、ぬぐいがたい不信感がある。しかし、通則法への問題意識に限れば、文部省と大きな違いはないようだった。
九月二十日、東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターに集まった九十九国立大の学長たちに、有馬は初めて公式に独法化の「検討の方向 (条件案)」を示した。
《「大学自らが教育研究の制度設計をし、実現するという大学の特性を踏まえたものでない」ので、独立行政法人通則法には反対だ。だが大学が「自主性・自律性を高め、自己責任を果たすため」には法人格を持つべきだ。組織の変更や予算の使い道が自由になるし、そうなれば各大学の個性化が進んで、互いにしのぎを削る環境が生まれる。定員削減が二〇〇一年から始まるので、二〇〇〇年のできるだけ早い時期に結論を得たい・・・》
有馬がおおよそこのような説明をした後、高等教育局長の佐々木正峰(五八) が詳しい中身を説明した。質疑応答の時間はなかった。
ある学長は「ポツダム宣言の受諾」と受け取り、ある学長は「天下分け目の東京・夏の陣」と評した。
「あの夏はなんと暑かったことか。行政改革から来た独法化が、議論する間もなく進んでしまった。卒直に言って苦しい」(山田家正・小樽商科大学長)
独法化への「流れ」は「既定路線」となった。学長たちはこの日、はっきりとその現実を知らされた。
(文中敬称略)
独立行政法人についての条件案を明らかにした文部省は、一九九九(平成十一)年十月から十一月にかけて、国立大学をブロックごとに分けて説明会を開催した。トップを切って行われたのは、もっとも反対の強い九州地区だった。
十月四日、長崎大での九州地区説明会で、文部省側は、のっけから戸惑いを感じることになった。
「意見交換のスタイルで始めたら、たちまち進め方にクレームが付いて行き詰まった。普通は考えられないことだが、百近くの質問に全部答えてくれと言われた」と、説明に当たった文部省大学改革室長・杉野剛(三八)は明かす。
―独法化でなければならない理由は?
「この問題を検討しないで済むような段階ではない。定員削減の一〇―二五%という問題もあり、腹を決めないといけない」
―今より予算も増えるのか、国立大学は元気になるのか?
「おっしゃるとおりだ。これまでのように護送船団方式で(一律に)はやれないが、各大学の努力いかんにかかっている」
文部省は、この問題が高等教育政策と無関係の「定数削減」から生じたことを素直に認めた。その上で、予算面や組織の運営面などについて大学側の不安を取り除くよう説明に努めたが、結局独法化路線への理解は得られなかった。
独法化しても屋台骨が揺らぐ心配が少ない旧七帝大などの「強い大学」と異なり、それが存亡の危機につながりかねない地方大学には、強い不安がある。
最大の問題は、国から安定して得られた資金が細る可能性が強いことだ。「予算配分が増える大学や学部もあるが、一部に多く出せば他は減る。文部省の評価とその配分が結びつけば、官僚統制が強まり、自由な学問は衰退するだろう。地元の産業基盤が小さい地方大や小規模大にとっては独法化では展望がなく、国立大のままで改革を進めるべきだ。中央だけでなく日本全体の均衡ある発展が重要だ」。独法化に反対する鹿児島大学長・田中弘允(六五)は、そう強調する。
国立学校財務センター教授の天野郁夫(六四)らが昨年まとめた調査では、そんな大学・学部間の温度差が鮮やかになった。
国立七大学の教員を対象としたこの調査で「『一部』または『すべての』国立大は設置形態を変更すべきである」と答えたのは、旧帝大の東北大が四〇・七%でトップ、最低は佐賀大の二三・七%だった。逆に「現状の形態を維持すべきだ」としたのは、佐賀大が四一・四%で一番多く、香川大と山形大(三三・一%)が続いた。最低は東北大の一八・五%で、広島大(二〇・三%)、九州大 (二二・五%)がこれに次ぐ。
専門別では、人文科学系、社会科学系、教育学系に「現状維持派」が多く、医・歯・薬学系、工学系では「変更派」が多かった。
天野は「独法化が問題になる以前の調査だが、国立大の中でも旧七帝大などの研究大と地方大、文系と理系とで考え方の違いが浮かんだ。(外部資金などが得やすい)工学系などは『今より自由な方がいい』という考えなのだろう」と分析する。
鹿児島大のほか、宮崎大や富山大では、教職員の有志で募金を集め、地元の新聞に独法化に反対する意見広告を出した。「授業料や民間資金などで賄えるのは四分の一。国の資金が途絶えたら、赤字分は大学を縮小するか授業料を値上げするしかない」。宮崎大学長の二神光次(六三)は苦しい台所事情を明かす。「うちの学生の三割は奨学金をもらっている。値上げをすれば、教育の機会均等が保障できなくなる」
新制大学が発足して五十周年だった昨年、全国の大学で記念事業のための募金が行われた。大学の資金力の違いは際立っていた。「太平洋側では十億以上集めた大学もあるが、日本海側で三億を超えたところはない。まわりの企業など、バックグラウンドの違いは大きい」。北陸地方の学長の嘆きは、多くの地方大の置かれた状況の厳しさを象徴している。
(文中敬称略)
国立大の設置形態はどうあるべきか
大学名 現状を維持すべきだ 変更すべきだ の順(%)
東北大 18.5 40.7
山形大 33.1 26.1
新潟大 27.6 32.1
広島大 20.3 36.8
香川大 33.1 28.8
九州大 22.5 38.0
佐賀大 41.4 23.7
全体 24.5 35.2
文部省が独立行政法人化案をブロックごとに学長に説明する全国行脚を終えようとしていた一九九九(平成十一)年十一月一日、国立大学協会は、理事会を開いて対応を協議した。
「どこを最大の争点とするか、まずそれを固めていかなければならないが、固められるかどうか若干気になるところだ。国大協にすべてゆだねられても不可能なケースもある」。会長の東京大学長、蓮実重彦(六三)はやや弱気な発言で口火を切った。「最終的には多様な意見を踏まえてまとめたいが、細かなことを逐一挙げて発言する時期は終わったと思う。いつだれに向かってどこで何を言うかについては、もう少し時間を頂きたい」
利害が対立する九十九国立大学を一つにまとめるのに苦慮した蓮実は、議論を大枠に絞ることで着地点を見いだそうとしていた。
同月十七日、東京・神田錦町の学士会館で開かれた総会では、案の定、種々の意見が飛び出した。
〈立場の弱い大学は文部省の意向に従わざるを得ず、結果的に独法化は規制強化につながる〉
〈独法化はすでに回避できないところまで来ている。やり方によっては道が開ける可能性がある〉
〈もう戻れないと言う見方はペシミスティック(悲観的)に過ぎる〉 〈悪くするとこれまで築き上げてきたものを崩壊させかねない。声を大にして反対を主張すぺきだ〉
〈この機会を逆にチャンスととらえて、特例法を作ることも考えていかないといけない〉
議論は白熱し、三人に一人の学長が発言に立った。独法化を懸念する声が目立ったが、「条件付き受け入れ派」も少なからずいた。
「スキーム(独立行政法人通則法)」には反対と言ってきたので同意いただけると思うが、個々の内容に対し賛成、反対の旗色を鮮明にすることは、独法化の方向に国大協が一歩踏み込んだと見なされる。それは今取るべき態度でない」蓮実は初日の議論をこう締めくくり、「会長談話」を出すことを約束した。
その晩、蓮実は徹夜して文案を練ったという。二日目の十八日早朝、総会に先立って集められた二人の副会長らは、学士会館の別室でなおキーボードに向かう蓮実の姿を目撃した。
総会二日目も、学長たちの議論は尽きなかった。蓮実は「国立大に残ったとしても苦しいだろうし、独法化も通則法をそのまま適用したら、多くのものを失う。結論をこの場で出すのは不可能だ」と総括し、東北大学長の阿部博之 (六三)が委員長を務める委員会で、高等教育や学術研究の将来に欠かせない基本要件をまとめることが決まった。
「国立大学の独立行政法人化の議論を超えて高等教育の将来像を考える」。そう題した談話で、蓮実は「設計図が不完全な場合、建築物は必然的にゆがんだものとなる」と、通則法の枠組みに大学を強引に当てはめる"無謀さ"をあらためて批判した。しかし「事態は、賛成反対を唱える以前の段階にとどまっている」として、はっきりとした態度表明は避けた。
総会後の記者会見で蓮実は「首都圏の大学と地方の大学に温度差がある。ことによったら分かれるという予感がないわけではない」と不安を漏らした。
◇
十一月下旬、阿部は九十九の国立大学長らに、高等教育や学術研究の将来像を考える際に必要な基本条件について意見を求める文書を送った。二つ以内、一つに付き三行以内でまとめるという条件を付けた。
独法化する際の条件案を求めたわけではないが、多くの学長は、三―五年の「中期目標」を大臣が各法人に指示する―とされている点など、独法化の基本構造を問題視する意見を寄せた。
委員会はこれらの意見を集約した資料を作成した。委員には原点に返って国立大学の理想的な在り方を発信すべきだとする意見があったが、検討はここで打ち切られた。
「国大協として九七年六月に一度、(国立大の在り方について)考えを出しているが、それから変わっているわけではない。資料は蓮実会長らが有力政治家に会ったときの説明資料にしており、ほかの使い道は考えていない」(阿部)。分裂を恐れる国大協は、二〇〇〇年の幕が明けても沈黙を破れず"待ち"の姿勢を続けるだけだった。
(文中敬称略)
「本省に国立学校を置く」―。文部省設置法八条に書かれたこの一文が、国立大を文部省の一組織としてつなぎ留めている。同省に所属することは「護送船団」時代には厳しい規制のもとに置かれることを意味した。国立大を法人化して、同省から切り離す案は、そうした規制からの脱出を目指して浮上した。
中央教育審議会の一九七一(昭和四十六)年の答申(四六答申)では、国立大の自主・自律的な運営のため「公的な性格を持つ新しい形態の法人」などに移行するよう提言している。
八四年に始まった政府の臨時教育審議会でも同様の観点から、国立大学に法人格を与え、特殊法人として位置づけることを検討したが、八七年の答申では「中長期的な課題」とされた。
「同じ法人化でも、大学を自由に発展させるためという人と、浮世の冷たい風に当てろという立場の人がいた。国立大が行政の一部というのは不自然で、法人化がいいと考えたが、同床異夢の議論を詰めた方がいいと思った」。臨教審当時、文部省の高等教育局長だった国立学校財務センター所長、大崎仁(六七)は振り返る。
行政改革会議の国立大独法化論議も、四六答申などが源流だった。「四六答申は一大エポック。ボクは当初からその実現を考えていたんだ」。元行革会議事務局次長の日大教授、八木俊道(六四)が明かす。
しかし、四六答申の法人化と、今回の法人化には大きな違いがある。今回は、単なる法人化ではなく、行政サービスの一環としての「独立『行政』法人化」だからだ。行革会議事務局長だった水野清(七五)は、「大学は文部省という教育立案部門の"現場"だ」と言ってはばからない。
行革会議の終了後、再びわき上がった国立大の独法化は、当初の理念と関係ない「二五%定員削減」の数合わせが発端になった。かつて大崎が恐れた「国立大を冷たい風に当てろ」という、政界などの空気がそれを後押しする。
大学改革を訴えている大阪大副学長、本間正明(五五)は「大学では企画立案と現業が切り離せないのに、独法化から議論が始まったのは不幸だった」と嘆く。
二十一世紀の大学の在り方を検討していた大学審議会が一昨年十月に出した答申では「国公私立大学がそれぞれに期待される機能を発揮し特色のある教育研究を展開していくことが重要」だと指摘した。文部省はそれから一年とたたず独法化路線に転じた。
「答申には、独立行政法人のことは一言も書いてない。まず大学審で議論をすすめるべきではなかったか」と、東京大副学長の青山善充(六〇)は批判する。
◇
民営化や独法化を求める「財界人」や「政治家」たちの間で、大手を振って歩く『通説』の多くは、実際は幻想にすぎない。
例えば―。
〈欧米の大学は私立が中心で、独立採算で運営している(実は、私立が多い米国でも学生数では公立が七割で私立が三割、州立では連邦政府や州の負担が五割以上。ヨーロッパにはほとんど私立がない)〉
〈日本の大学の研究は欧米に大幅に遅れた(実は理工学、化学、工学は論文数で米国に次ぎ世界二位)〉
〈日本の国立大は予算を食うばかりだ(実は対国民総生産比で、日本の高等教育予算は欧米の半分から七割)〉
政府は、本当に教育・研究の未来を見据えて、独立行政法人化させようとしているのか。
「国は高等教育にどれだけの責任を持つのか。今の独法化の議論には、教育政策、学術政策の視点が欠けているのではないか」。国立学校財務センター教授の天野郁夫(六四)は疑問を呈する。
日本学術会議は昨年十一月、政府の科学技術基本計画で定めた国立大学の施設整備が一向に進まない現状の改善を求める勧告を首相の小渕恵三(六二)に出した。小渕と面会した際、会長の吉川弘之(六六)はこう迫った。「公共事業の意義は分かるが、橋や道路をたくさん造るより、緊急に求められるのは大学の整備だ。あなた方の意思決定はおかしいのではないか」
押し黙った小渕は最後に一言、ぽつりと答えたという。「うーん・・・・、考えましょう」
(文中敬称略)
=おわり