文部科学省の調査検討会議は9月27日、「新しい『国立大学法人』像について」と題する中間報告を発表しました。この「中間報告」は、調査検討会議における1年余の議論を経て提出されたものですが、私たちにとって、到底受け入れられない内容に満ちております。「中間報告」は大部であり、内容も多岐にわたりますので、ここでは特に3点にしぼって、私たちの批判的見解を表明いたします。東北大学総長 阿部 博之殿
なお、総長におかれましては、10月29日に開催される「国立大学協会臨時総会」では、何卒東北大学職員組合の基本的見解を汲み取り、発言していただくようお願い申し上げます。
東北大学職員組合は、まず、将来的に「遠山プラン」において明言されている「民営化」につながるような「法人化」に、断固反対いたします。国立大学の教育研究は、貴重な知的財産を受け継ぎ、時代の多岐にわたる知的課題に応え、そしてその実現のために将来的に有為な人材を多く育てるところにあります。しかるに、排他的な競争原理および利潤追求にのみ走る「民営化」路線では、基礎的・理論的教育研究が簡単に捨て去られる恐れが十分あると考えられます。それでは、国立大学の理念や「あるべき姿」を決して実現することはできません。東北大学職員組合は、大学は教育研究に精魂傾ける人たちが集う場であり、決して私利私欲に走る人間を送り出すところではないことを確信しております。
以下、3点にしぼって私たちの批判的見解を表明いたします。
「中間報告」は冒頭で「・・・描こうとしたのものは、法人化後の新しい国立大学等の姿である」と述べています。しかし「報告」の内容は、決して国立大学のあるべき「将来像」を描いていません。学問および教育研究は多様であり、その価値は一律に計ることができるものではありません。ところが、実際に描かれているのは、科学技術の開発にしのぎを削る、偏向的なものでしかありません。学問全体の中で、「競争原理」が適合するのは一部分に過ぎず、多くはむしろ「協力・協調・協同の原理」によって発展してきたのです。学問の一部だけが特化され、競争になじまない多くの分野が圧迫されることを怖れます。これでは、「中間報告」が謳う「学問と文化の継承・発展・創造」の実現は、到底不可能であると思われます。
既に多くの批判が提出されているように、「中間報告」では大学の運営に関して、大学自身の意向があまりに軽視されています。「中間報告」では、学外者が運営に参画し、大半の大学構成員の意向と関わりなく各種の決定が可能になる構造が推進されます。また、大学自身の中期目標も、文科省の策定や認可のもとにおかれます。こうした方向性は、自由裁量や個性の発揮を目指した当初の大学改革に対し、大きく道を踏み外したものと考えざるを得ません。
「中間報告」に従えば、大学は競争原理のもとに比較的短い期間の業績評価によって資金が分配される方向に向かうでしょう。一方、本来大学の使命であった教育研究に対しては、財政的保証の方針が示されていません。むしろ、大学の財務上最も重要と考えられる運営交付金に第三者評価を反映する仕組みは、各大学の自主性・自律性を根本的に阻害し、研究者を矮小化された目標のための研究に追いこんでいくものと考えられます。もし目先の成果を追い、時流に乗り、マスコミに騒がれる先端分野ばかりが過度に脚光を浴び、基礎的・理論的学問が軽視されるならば、日本の学術研究のみならず文化的成熟度に致命的な打撃を与えるものでしょう。その意味からも、「中間報告」を容認することは到底できません。
この中間報告に示された大学像は、長期的視点に立って多様性を持つことを本質とする大学教育研究にはなじまず、また、競争力あるいは効率性の観点から一律に大学を評価する仕組みは、各大学の自主性を大きく損なうものであると判断されます。
そもそも、今回の国立大学法人像は、行政機関の独立行政法人化という国の行政改革から始まったものであります。さらに、日本の産業界の競争力低下に対する対策の一環として、大学に産業競争力強化のための科学技術研究を求めるという産業界からの強い要望が、国立大学法人像に強く反映されています。これらが、「大学の自主・自律のために設置形態を見直す」という本来の大学改革とは全く別の次元での議論であることを考えるならば、真の大学改革はどのようにあるべきかという原点に立ち返り、根本的に案を見直す必要があると考えます。
東北大学職員組合としては、大学に課せられた使命を果たし、教育のグローバル化に対応するためには、1997年のUNESCO勧告「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」を基本とした大学の制度設計が望ましいと考えています。
2001年10月26日
東北大学職員組合