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広範な社会にも、大学構成員にも
開かれていない 無責任な法人制度

--国立大学法人法案に関する東北大学職員組合の見解--

2003年5月21日

1. 政府と大学の関係について
政府は責任を持たずに権限を維持する。
 大学の自主性は拡大されない

 国立大学が存在するということは、国が高度な研究と高等教育発展のために最終的に責任を負うということである。そして、研究と教育という活動の性格上、これに実際に携わる者には広範な権限が与えられることが望ましい。ところが、法案のめざす国立大学法人化は、政府が負うべき責任は軽減する一方で、大学の研究・教育に対する統制は強化しようとするものになっている。大学の自主性強化が法人化のメリットとして宣伝されているが、それは基本的に幻想である。剰余金の翌年度繰越が可能になるなど、部分的にそのような側面があるとしても、制度設計の基本は、「責任を取らずに統制権限を強化する」というものなのである。以下、具体的に説明する。

設置者としての責任のあいまいさ

 当組合も、また国立大学協会も、国が高等教育発展のために最終的に負うべき責任を明確にするために、国立大学の設置者を国とすることを要求してきた。しかし、法案では、国立大学の設置者は国立大学法人となり(第一条、第二条第1項)、この責任があいまいにされている。特に財政責任があいまい化されることによって、高等教育への必要な国費投入が回避される危険がある。

「構想と実行の分離」のための中期目標・中期計画

 法案では、文部科学大臣が、国立大学法人等が達成すべき業務運営に関する目標を中期目標として定めることになっている(第三十条第1項)。大臣は、中期目標を定める際に国立大学法人等の意見と国立大学法人評価委員会の意見を聴くことになっているが(第三十条第3項)、最終的な権限は大臣にある。また、評価委員会は文部科学省内の組織であり(第九条)、大学の代表でも第三者でもない。つまり、大学の目標は大学自身が定めるのではなく、文部科学大臣が定めるのである。

 大学は、中期目標を達成するための中期計画を作成するが、これも文部科学大臣の認可が必要である(第三十一条)。しかも文部科学大臣は、いったん認可した中期計画であっても、それが不適正であるとみなせば変更を命ずることができ(第三十一条第4項)、これに従わなかった国立大学法人役員を処罰することさえできるのである(第四十条第6項)。つまり、法案のいう中期目標・中期計画とは、文部科学大臣が定めた目標を文部科学大臣の意図するとおりに実行させるしくみなのである。これは、通則法に基づく独立行政法人化と同様に、「構想と実行の分離」を政府と大学の関係に適用しようとするものであり、まったく不適切である。政府の時々の政策やこれに表現される特定の価値観によって研究教育活動が規定されることになる。

2. 大学の運営原理について
大学構成員と社会に開かれていないトップダウン体制

 国立大学の運営は、営利企業とも政府機関とも、各種の非営利組織とも異なる独自の性格を有している。それは、一方では国民から付託された研究・教育発展に関する権限と責任を持つという性格であり、他方では研究・教育という活動の特性に対応した知の共同体という性格である。この両者から、一方では研究・教育に携わる者自身による、国家権力や特定利害の介入を排した自治体制が必要となり、他方では国民に対する説明責任や効率的運営の責任、さらに国民の範囲を超えた人類一般などに対する責任が生じる。研究成果の商業化などをめぐっては、両者の間に緊張関係が走ることもある。こうした緊張関係の取り扱い方や責任の果たし方について、大学が閉鎖的ではないかという社会の批判に対し、われわれは謙虚であらねばならない。しかし、批判に応えるためにも、研究・教育にふさわしい知の共同体という性格は守り、発展させねばならない。

 ところが国立大学法人法案は、一方では研究・教育の発展に必要な権限を大学構成員からとりあげ、他方では知の共同体という性格を否定している。そして、政府および学長に権限を集中することで、国家権力や特定の利害関係に研究・教育活動を従属させ、そのための効率性を求めようとしているのである。以下、具体的に説明する。

法案による大学運営の機構

 法案によって、これまで評議会が最高議決機関であった国立大学の運営機構は大きく変わる。具体的には、学長と少数の理事が強大な権限をもって最終的な意思決定を行い(第十一条)、その下で経営にかかわる事項を経営協議会が(第二十条)、教育研究にかかわる事項を教育研究評議会(第二十一条)が審議するというしくみである。その特徴は、第一に学長権限の強化であり、第二に研究教育と経営の分離である。

役員会によるトップダウンの運営

 法案は、国立大学の内部組織について、学長と少数の理事がトップダウン的に運営できるものとしている。大学の自主性強化として宣伝されていることの多くは、実は学長と役員会の権限強化のことなのであり、大学構成員の決定権の強化ではない。具体的には、学長は役員会構成員である理事(第十三条)、経営審議機関である経営協議会の委員(第二十条第2項)、教育研究審議機関である教育研究評議会の評議員の少なくない部分(第二十一条第2項)を任命・指名する権限を持ち、かつ経営協議会と教育研究評議会を主宰する。そして、当該国立大学、学部、学科その他の重要な組織の設置又は廃止に関する事項について議論する権限は役員会にのみ与えられているのである(第十一条第2項)。このようなトップダウンの運営は、研究・教育機関にはまったくふさわしくないものである。

 さらに、学長選考制度にも問題がある。学長の任命は、国立大学法人の申出に基づいて文部科学大臣が行うが、この申出のための学長候補者の選考は、経営協議会と教育研究評議会のそれぞれから同数ずつ選出された委員からなる学長選考会議によって行われ、しかも学長選考会議に現在の学長や理事を加えることすら可能になっているのである。(第十二条第1項、第2項、第3項)。経営協議会委員の全員と教育研究評議員の一部が学長によって任命されるのであるから、これでは、次期学長の選考に現在の学長の意向が強く入り込むことは明確である。この制度の下では、学長の地位は、構成員によってチェックされない自己再生産可能なものになるであろう。

研究教育と経営の分離と 後者の優位

 研究教育と経営を分離することの問題について、まず経営協議会の側から述べる。

 第一に、既に述べたように経営協議会委員の全員が学長の任命によるとされており、学長による経営方針を支える性格を強く持っていることである。

 第二に、学外者の委員が経営協議会の総数の二分の一以上でなければならないとされていることである(第二十条第3項)。これは、社会に開かれた大学と、専門家による効率的な経営の二つの理由から導入されているが、実際には、学外委員が誰の付託をどのように受け、誰に責任を持つのかがあいまいだという欠陥を持っている。

 具体的には、学長に任命された学外委員が経営に関する審議を大きく左右することによって、二つの可能性が生じる。ひとつの可能性は、学長によって任命された経営協議会委員が、もっぱら学長の意向に即した経営を行うことである。この場合、広く社会の構成員が大学のあり方をチェックするという機能は働かない。もうひとつの可能性は、研究・教育に通じていない学外委員が、短期的な視野や、または研究教育機関にふさわしくない指標による業績を追求することである。この場合、研究教育活動自体が停滞するであろう。

 次に教育研究評議会について述べる。教育研究評議会は、従来の評議会に比べると著しく権限を縮小されている。特に重大なことは、研究教育活動の遂行に不可欠の「予算の作成、執行並びに決算に関する事項」は役員会と経営協議会、「重要な組織の設置又は廃止に関する事項」は役員会の権限とされ、教育研究評議会の審議事項から外されていることである(第十条第2項、第二十条第4項、第二十一条第3項)。これによって、研究・教育に携わる教員自身の意見反映の余地が著しく狭められている。

教授会権限の削減もしくは消滅について

 法案の一つの特徴として、部局内の組織に関する規定、したがって教授会に関する規定がまったく欠落していることがあげられる。同時に、国立学校設置法が廃止されるので、同法による教授会のあり方の規定も消滅する。学校教育法第59条が「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」と定めている以上、教授会を廃止することがただちに可能になるとは思えないが、教授会権限も含めて部局運営の組織をどのように設定するかについては、国立大学法人に委ねるという解釈が可能である。周辺的な組織編成の柔軟性を確保するのはよいとして、教授会が、教員人事に関する権限やカリキュラム編成などの研究教育にかかわる重要事項を審議するという原則が、なし崩し的に破壊される危険もある。特に学長権限の強化によって部局権限が縮小されるもとでは、このおそれはいっそう現実的である。

誰に責任を負う運営か

 法人化を主張する意見は、責任ある運営をたびたび強調する。しかし、ここで問題なのは誰に対する責任かということである。政府は国立大学法人を統制する強大な権限を有しており、その枠の下で学長に学内の権限が集中されている。とすれば、学長や理事の持つ責任とは政府の時々の意向を実現する責任ということになりかねない。また、仮に学長が政府から何らかの自立性を保つことに成功したとしても、それは学内的なチェックを受けない学長権限が自己再生産されるということであり、まったく無責任な体制となりかねない。また、仮に経営協議会の学外委員が学長から何らかの自立性を有し、強力な発言権を得たとすれば、それは社会からも学内からもチェックを受けず、最悪の場合は特定の利害に過度に左右された経営となりかねない。

 国立大学法人法案の下での大学は、国家権力には開かれているが、広範な社会にも、大学構成員にも開かれていない。この制度は、まさにその主唱者が強調する「責任」という観点から言って重大な欠陥を持っているのである。教授会・評議会を中心とした従来の大学自治の体制に様々な改善の余地があることは当然であるが、法人化によって事態が改善されるとは到底考えられない。


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