1998/11/26
発行・東北大学職員組合教育宣伝部
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北川内支部 窪 俊一さん
窪さんからは原稿を9月初めにいただいていましたが、発行が遅くなり申し訳ありません。
8月3日から6日まで広島を訪れた。この5月に強行されたインドとパキスタンの核実験は、核軍備競争が終わっていないこと、核戦争が引き起こされる可能性があることを強く印象づけた。そのような中で約7200名が参加して行われた今回の大会は、最近の世界大会とは少し違うものとなった。まず、大会に先立って行われた国際会議の「宣言」が報告され、核保有国に対して核兵器廃絶のための国際協議の開始や核不使用宣言などを求め、2000年末までを「核兵器のない21世紀を − 国際共同期間」とし、核兵器廃絶のための多様な取り組みを強めることを世界に呼びかけた。大会には、インド、パキスタン両国からの代表も参加しており、マスコミで報道された核実験を支持する両国民の姿は、必ずしも真実を伝えておらず、作為的に演出されたものであるとの報告もなされた。
宮城県からは約70名(地域原水協代表、民医連・高教組などの団体代表、高校生など)が参加した。年齢構成も高校生から六十歳以上の人まで多彩であり、いろいろな立場で原爆の実相、各地での取り組みに触れ、現在の世界の状況を知ることができた。東北大からは北川内支部の窪が参加した。以前、広島大学で四年間勤務していたので原爆のことはよく知っているつもりであったが、世界大会そのものは初めてであり、世界・日本各地から数多くの人が参加して、熱心に議論しているのを聞き、草の根の運動を束ねるとこんなにも大きなものになるのかと、正直言って驚いた。
広島は僕にとって見知らぬ都市ではない。愛媛県に生まれ育ち、初めての職場は広島大学だった。そこで僕なりに被爆者、反核の問題と取り組んだつもりだし、娘は広島生まれだ。娘も十二才になり、「はだしのゲン」を少なくとも二、三度は読んでいるはずだ。宮城県代表団の一員として原水禁世界大会に参加するのが今回の広島訪問の主たる目的であるが、一足先に娘と広島入りした。彼女の生まれた病院は逓信病院という。構内に中国郵政局があり、そこには戦後一貫して核兵器廃絶を訴え続けてきた広島の詩人、栗原貞子の詩『生ましめんかな』を刻んだモニュメントがある。被爆直後の防空壕の中で生まれてくる命、死んでいく命をうたいあげた感動的な詩だ。広島と長崎は昔よく比較されて、「闘う広島」、「祈りの長崎」と形容されてきた。長崎の「祈り」を代表する作家として永井隆(『長崎の鐘』)がすぐ思い浮かぶし、「闘う」詩人として真っ先に彼女をあげたい。彼女のすごいところは、今日の原水禁運動ではなっていること常識にではあるが、広島・長崎の被爆体験だけでなく、世界中の被爆体験をうたい、アジアへの視点を早くからちゃんと持っていたことである。数年前の交通事故がもとで今も入院中と聞いた。もう九十才だ。会う度に、なんて頑固な人だろうと思わずにいられなかったが、その芯の強さが今まで彼女を支えてきたものだ。
広島はきれいになった。被爆体験がきれいにショーウィンドウに飾られているようだ。現在の原爆資料館へ行くとその感を強くする。以前は、原爆資料館と平和記念館とが切り離されていて、被爆の事実だけが強調されていたが、それと比べれば現在は入り口が一つになり、歴史の流れの中で原爆が見れるようになっている。ただ、被爆資料が以前と比べて圧倒的に減った。これを「すっきりときれいになった」と言うこともできよう。しかし、資料はそれに付された解説ではなく、資料自体が僕たちに語りかけてきていた。僕はそれに圧倒されていた。今回、僕は圧倒されなかった。多分、資料が「きれいに」なったからだろう。数ではなく質へと高められた被爆資料。それは今や芸術作品となった。
夜、宿舎で代表団の結団式。高校生から老人まで、いろんな職業の人約七十名。九才の時広島で被爆した被爆者もいる。爆心地から東に約一キロ、現在パルコの立つあたりがご実家と聞く。あの日、人々は比治山へと、また京橋川に沿って北へと逃げた。原爆文学の傑作の一つ、原民喜の『夏の花』で、「私」は縮景園(旧浅野家の庭園)へと避難した。現在、縮景園を訪れると、当時を思い出させるものはいくつせの小さな慰霊碑だけだ。しかし、すぐ裏を京橋川が流れ、地獄絵図はまさしくこの場所で見られたのだ。結団式の後、同室の人たちを誘って電車で市の中心部へ。八丁堀から本通りを抜け、平和公園の方へ。元安橋の少し手前を右に折れると島外科がある。爆心地だ。近くにかつての馴染みの店「しげ」がある。「しげ」はおかみさんの名前。彼女も被爆者だ。姿が見えないので娘さんに聞くと、ぼけてきて店には出られなくなったという。もう七十七才だそうだ。二十四才の時に被爆したことになる。やさしいおばちゃんだった。僕が広島に来たかった理由の一つは、こういう人たちに再会することだったが、栗原貞子さんをはじめ入院中の人も多い。Kさんはずっと被爆者を支援してきた人だ。彼女に異変が起こったのは数年前。原爆病の診断。医者に聞かれて初めて彼女は、女学生の時、呉で被爆してきた人を看病したことを思い出した。二次被爆である。彼女の例に見られるように、五十年後に発病することもあるのだ。
広島は暑い。仙台でこの暑い夏を忘れていた。午前中、代表団と平和公園を見学。原爆ドームは大正4年につくられた広島県産業奨励館。ゼセッション様式と呼ばれる瀟洒な建築物でとても格好良かった。戦後、この建物を保存するか否かについては、長崎の浦上天主堂と同様に意見が分かれた。結局、広島は残し、長崎は残さなかった。どちらが良かったのか僕には分からない。現在の原爆ドームは二度の補修工事を経て、一昨年にはアウシュヴィッツと同様に世界遺産に登録されている。
原爆ドームのすぐそばに原民喜の詩碑がある。「遠き日の石に刻み/砂影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻」と記されている。「もし妻と死別したら、一年間だけ生き残ろう。悲しく美しい一冊の詩集を書き残すために」と決心し生きた。妻の一周忌を間近にして彼は広島で被爆。今度はその体験を書き記すために生きた。そして、朝鮮戦争が始まり、アメリカのトルーマン大統領が原爆使用を口にしたとき、彼は東京で鉄道自殺した。
平和公園を設計したのは丹下健三であるが、埴輪の家型につくられた原爆慰霊碑の前から覗くと、原爆ドームが見えるようになっている。正面の噴水から原爆ドームまで一直線に並び、それにちょうど十字に交叉するように原爆資料館が建っている。今年も石棺には新たに四千名以上の被爆者の名前が書き込まれた過去帳が収められる。平和公園内には多くの慰霊碑があるが、半数以上は、広島に何らかの形で動員されていた人たちの慰霊碑だ。現在全国各地に被爆者がいるが、広島・長崎出身の人は多くないはずだ。原爆資料館は何度も来るところではない。広島大学にいた頃はよく外国からのお客さんを案内して来た。何度も来るうちに自分が慣れてきたのに気がついた。恐かった。それ以来、お客さんを入り口に案内し、出口で待ったいた。
午後から、平和公園のすぐ北側にある世界大会の会場・広島県立総合体育館へ。ここは広島の中心地・紙屋町だ。デパートのそごうがあり、被爆者に勇気を与え続けた広島市民球場、中央図書館、映像文化ライブラリー、ひろしま美術館、広島城などがある。しかし、ここはまた大本営のあったところであり、基町地区は戦後被爆者のバラックが建ち並んでいたところでもある。太田洋子の作品にはここがよく登場する。現在その面影はどこにもない。太田川沿いの基町にはきれいな高層の市営アパートが建ち並んでいる。太田洋子の慰霊碑も中央公園の隅にたっており、ここまでくる観光客は少ない。
世界大会の開会総会は二時に始まりきっかり四時四十分に終わった。僕にとって面白かったのは、同じ会場で入れ替わりに原水禁の世界大会が行われたことだ。会場を出て、すぐ、原水禁のデモ行進とぶつかった。原水禁と原水協が分裂した経緯を若い人たちは知らないだろう。社会党と共産党の対立。中国の核実験をめぐる評価の違い。その一端は大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」からも読みとれる。外国でこの反核運動の分裂を説明するのは難しい。
分科会。僕は第十七分科会「被爆体験と原水爆禁止運動を若い世代へ−反核・平和の学習・教育運動」に出席。分科会としては、被爆者と語り合う企画に参加希望が多い。当然だし、僕自身も被爆者の声を聞いて欲しいと思う。僕は、自分の子供にどうやって原爆の問題を説明すればいいのか、という個人的な関心からこの分科会を選択した。被爆者のMさんの体験の報告に続いて、何人かが教育の場での平和教育の実践報告。Mさんが被爆者手帳を申請したのは子供が大きくなってからだ。被爆者手帳を申請することは、自分が被爆者であることを宣言することであると同時に、子供に被爆二世の烙印を押すことでもある。だから、子供がいる場合、子供が大きくなるまで、結婚するまで、待つことも多いという。Mさんの娘さんも、了承はしてくれたが、迷いがあったという。実践報告は、和光大学の学生の報告、東京大空襲を扱った東京の小学校の先生の報告。これに続き、意見交換。自分の身近な問題と原水禁運動をどう結びつけるかが問題。
『人間をかえせ』
昼休みに広島大時代に世話になったK先生に電話。K先生は広島の反核運動の中では各方面に顔が広い。特に広島在住の作家は良くご存知である。以前から文学資料保存館建設を広島市に訴え続けていらっしゃる。一昨年、広島に反核資料収集に来たが、その際もいろんな方を紹介していただきお世話になった。電話をすると、お昼をご馳走するからすぐにタクシーで来いとのこと。さっそく市内西部の己斐(こい)へ直行。『黒い雨』で主人公の女性はここでキノコ雲を見る。そして舟で宇品港へ向かう途中で黒い雨を浴びるのだ。K先生は相変わらず骸骨のよう。でも喘息は良くなったという。いろいろな人の消息を聞く。今晩はある反核の集会に出かけられるという。広島でのこの数日間の催し物の一覧表のようなものを見たが多くてどれに出ていいか分からない。夕方からは、原爆ドーム近くでコンサートも行われている。つい長居をしてしまったが再び市内へ。繁華街で偶然、「広島太郎」を見かける。彼も年をとった。仙台四郎と同じ。しかし、ファッション感覚が素晴らしい。長い髪や体に無数のカラフルな紙や空き缶がぶら下がり、かつては広島のファッション界をリードすると言われた。が、今日はちょっと地味だった。
原爆祈念日。平和公園へ。暑い。五十三年前もこんなに暑かったのだろう。暗いうちから線香をあげに来る人が多い。平和公園の至る所で祈る姿。しかし、平和記念式典の会場周辺は完全な立ち入り禁止。一万人以上が出席する。椅子は美しく並べられている。市内の至る所で原爆の犠牲者を悼む式典が行われている。平和記念式典はその一つに過ぎない。原爆ドーム周辺にはいわゆる過激派も集結。そのうちに八時十五分。平和の鐘が鳴る。黙祷。原爆ドームの横ではダイイン。読経の声。今晩、元安川には無数の灯籠が浮かぶのだろう。灯籠には犠牲者の名前、メッセージが書かれている。引き潮で一端流れた灯籠が、満ち潮でまた戻ってくる。
十時から原水禁世界大会の閉会総会。分散会、分科会の報告。海外代表、全国代表行動の決意。最後は広島の小中高生による原爆詩劇。そして歌。草の根の運動が再び地方へ、世界へと散っていく。原爆祈念日とともに広島の夏も終わった。空路帰る宮城県代表団を送り出す。僕は、比治山へ。ここからは広島市内が一望できるが、放射線影響研究所(かつてのABCC)、軍人墓地などがあるが、今回の目的は現代美術館。ここには世界の芸術家が原爆・ヒロシマというテーマでつくった作品を数多く収蔵している。隣に、マンガ図書館もある。本来ならここで中沢啓治関係の資料を調べるつもりだったが残念ながら六日は休館。これで僕の広島訪問も終わった。今回、十数年ぶりにヒロシマをじっくり体験することが出来た。東北大の職組のみなさんに感謝、感謝。