1998.9.1発行
東北大学職員組合教文部 発行
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大学審議会「中間まとめ」21世紀の大学像と今後の改革方策について-競争的環境の中で個性が輝く大学-が6月30日に提出されました。「学生教育を厳格に」「大学院修士課程コース多様化」といった内容が新聞等で報道されましたが、実際の内容は、大学の自治を否定し、科学技術の発展のみを目指して競争主義に傾倒した学問観、教育観に基づいた方策を求めるものです。教員部会では、この「中間まとめ」の内容、問題点を検討・議論しました(8月26日)ので、ご報告します。
教養教育の重視、地域社会への貢献、アカデミック・フリーダムの堅持、会計制度等の弾力化、など評価できる内容を含んでいるが、大部分において重大な問題を含んでいる。
II-0. 全体として「科学技術創造立国」「リーダーシップ」「適切な評価による資源の効果的配置・再配分」「第三者機関」という言葉が非常に多く出てくる。その代わり、憲法・教育基本法の真理と平和を希求する人間の育成、また人類の福祉への貢献、個人の尊厳及び人格の成長という視点、言葉は全く表現されていない。
II-1. 大学教職員は、教育、研究、効率的運営、改革にもっと努力せよ。しかし、予算、定員は増やさない。非常に多くの課題を大学に付しているが、予算、定員の増額、増員は全く求めていない。「専任教員や専用施設・設備を備える必要があることを法令上明確化」とあるが、「大学院設置基準を見直す」ためだけである。
II-2. 国際競争力を強化するため、「科学技術創造立国」実現のための教育研究、人材養成国立大学は理工系大学院を中心とし、私立大学は「社会的に大きな需要のない」基礎学的分野(人文系)を中心とする構想である。「公的資金を基盤とする国立大学は」「自らが社会とともにある」のは当然のことであるが、故に「理工系人材の養成など政策目標に沿った教育研究の実施」が役割であるという主張は到底受け入れられない。さらに生産性、効率性、収益性の低い分野は私立大学が学生のお金で行えという考え方である。教育上でも「教養教育の重視,学際的視野の育成」に明らかに矛盾する。
II-3. 教育基本法の見直し 大学の自治および民主的運営が大学の社会変化への迅速な対応、柔軟性を妨げていたという認識から、中央集権化を求めている。さらに、大学の自治の象徴であり不可侵であった「人事、予算」決定のそれぞれに学外者もしくは第三者機関の関与を求めている。
「中間まとめ」は、既に成立している中央省庁等改革基本法の教育科学技術省構想が背景にある。教育科学技術省を規定した部分には、教育への不当な支配を排斥した教育基本法10条に抵触していると思われるような文面があるため、大学自治を骨抜きにしておき、「国立大学の組織、運営体制等の改革その他高等教育の改革を行うこと。」(中央省庁等改革基本法第26条第4号)に従い、この省が直接的に国立大学の組織、運営に関与してくる危険を可能にするものである。
「改革にとりくみその成果を上げている大学等を重点的に支援」するとして、「評価に基づく資源の効果的配分」を要求し、一層の「競争主義」を進め、大学の再編・淘汰を図っている。この背景には「独立行政法人化」構想がいまだに存在することを示している。
また教職員個人のレベルでも能力・成績に応じて、給与決定を柔軟に運用することが妥当であるとしている。これは任期制法制化と連動した内容であるが、「中間まとめ」が指摘している「大学教員は研究重視の意識が強すぎて教育活動に対する責任意識が低い」ことが加速されることは自明である。
大学は産業界の下請けでいいのですか?
地球と人類社会の未来に向けた大学の創造的発展のために、
私達は「対話」を重視した教育、研究、大学運営を望みます。
大学審議会「中間まとめ」21世紀の大学像と今後の改革方策について-競争的環境の中で個性が輝く大学-が6月30日に発表されました。「学生教育を厳格に」「大学院修士課程コース多様化」といった内容であると新聞等で報道されましたが、実際の内容は、大学の自治を否定し、科学技術の発展のみを目指して競争主義に著しく傾倒した学問観、教育観に基づいた方策を大学に求めるものです。東北大学職員組合執行委員会では、この「中間まとめ」の内容を検討し議論した結果、重大な問題があり、到底容認できないという結論に至りました。つきましては私達の意見書を公表するとともに、大学審議会にこの「中間まとめ」の根本的見直しを強く求めます。
大学院重点化がほぼ完了し、理工系中心の東北大学はさほど影響されない、と楽観している人も多いようですが、他人事ではありません。「中間まとめ」では、国立大学の課題、役割を「国際競争力強化」「科学技術創造立国実現のための教育研究、人材養成」を第一に掲げています。それは、短絡的な狭い大学観であり、文系を中心として基礎分野は真っ先にスクラップの対象となります。これでは、学問・教育を担う体制としては歪んだものとなってしまいます。理工系の研究所も、国立大学学長会議(98年6月18日)で文部省高等教育局長が明言したように、教育科学技術省への改組を見据えて独立行政法人化を突きつけられることを覚悟しなければなりません。
大学の研究は、企業の研究とは異なって然るべきです。私達は、地球と人類社会の未来のためには、自由で幅の広い学問基盤こそが必要であると考えます。
「中間まとめ」は、「大学の自治および民主的運営が大学の社会変化への迅速な対応、柔軟性を妨げていた」という認識から、教育研究、人事、予算のそれぞれに学外者もしくは第三者機関の関与を求めています。学問および大学の教育、研究は、時の社会(政治、産業)の要求と一致しない場合があっても構わないのではないでしょうか。このことは戦前の日本において、大学が政治の介入を許し、著しく偏った思想に縛られてしまった歴史を見ても確認することができます。憲法第23条が「学問の自由」を保証しているように、教育研究の自由な発展は、外部からの干渉や誘導によるのではなく、あくまでも教育研究にたずさわる人々の自主的内発的な営為を基礎に追究されるべき性質のものであります。
「中間まとめ」では、学長、学部長の権限強化をはじめとした中央集権化を求めています。さらに評議会、教授会の役割を限定し、それを補うために専門委員会を活用するとしています。これによって多忙化は解消されるのでは?と期待されるかもしれませんが、それは否です。現在の多忙の根本的原因は文部省の意向を具体化するために右往左往していること、また学生、院生が急増しているのにも関わらず教職員が削減されていることにあり、民主的意思決定過程にあるのではありません。いくら中央集権化を進めても検討すべき事項の絶対量が減らないと会議は減りません。社会も大学も変革が必要な時代ではありますが、だからこそ、自治と議論の縮小ではなく大学構成員の「対話」による合意形成、意思決定が必要であると考えます。
「中間まとめ」は、学部では、一般教養を重視し「高い倫理観や社会貢献の精神、豊かな人間性」を身につけさせ、大学院では、「高度専門職業人の養成、社会人再教育」を行う、としています。これでは大学は企業の即戦力養成機関となってしまいます。また「中間まとめ」は、「課題探求能力の育成」を目指していますが、それは「中間まとめ」自身が推奨している「厳格な成績評価」からは生まれません。「課題探求能力の育成」のためには、マスプロ教育ではなく、充分な予算と教員による少人数教育こそが必要であり、研究室レベル、教養専門教育レベルでの「対話」を大事にした教育が必要です。
「中間まとめ」は、「改革にとりくみその成果を上げている大学等を重点的に支援」するとして、「評価に基づく資源の効果的配分」を要求し、一層の競争主義を進め、大学の再編・淘汰を図ろうとしています。また教職員個人のレベルでも能力・成績に応じて、給与決定を柔軟に運用することが妥当であるとしています。これは任期制法制化と連動した内容の動きです。しかし、そのことによって、逆に「中間まとめ」が指摘している「大学教員は研究重視の意識が強すぎて教育活動に対する責任意識が低い」という事態が加速されることになるでしょう。そして競争主義が強化され多忙化が一層進むでしょう。
私達は、以上のような基本的な考え方に立ち、以下の提案を行います。 この中間まとめを読んで私なりに思ったことを以下に述べる。この「中間まとめ」では、II-2の「我が国発展の方向と高等教育の役割」という項で、知的、文化的基盤の充実、向上を図ることが大切で、学術研究が重要であると述べており、若手を育てるための教養教育や専門教育の充実化を説いている。しかし、その一方で「科学技術の発展」のための「理工系人材の養成」機関であることを強調している。大学院の教育、研究のさらなる高度化を図って、産業界の「ニーズ」に応えられるような「人材」を提供すること。また、教育、研究両面に対して第三者(途中に産業界という文言もあった)によるチェック機能の強化が必要だと述べている。これでは、極端な話、大学は大企業の専門学校となってしまうのではないであろうか。また研究も社会の「ニーズ」に応えることを要請しているが、この「ニーズ」という言葉の意味も(私にとっては)曖昧で、やはり産業界=大企業のニーズに応えるような研究を行うことを推奨しているように思える。このことは、「企業と大学が共同で教育プログラム」を作ることや、「成績評価基準を明示」して、「厳格な成績評価」を実施せよとの文言にもあらわれている。後者は産業界が人材を確保する上での評価基準として利用されるのであろうが、そもそも教育の内容にまで事細かに第三者である企業が介入することを許していることからも、大学の人材養成学校化を押し進めている、と私には思える。
私が属している金研では、年間予算が数億円にものぼる大規模なプロジェクト研究がいくつか行われている。また大学や省庁の研究機関との共同研究のみならず、企業との研究も盛んである。私はこのような産学共同の研究は各部局の自主性にもとづいてとづいて行なうことはいいと思うが、このような大きな研究には多額の予算があてがわれる一方、それに伴い予算配分の差別化も押し進められている。このような予算配分を決めているのは省庁なり、それに委託された諮問機関であろうが、このような重点化が学術研究のすみずみにまで行き渡れば、やはり第三者=産業界の意向がより強く反映されることになると思う。さらに任期制の推進や省庁の再編による3~5年単位の人の流動化が加速されれば、短期的なすぐに利益のあがるようなプロジェクト研究や、社会うけ、欧米うけしやすい研究が積極的に行なわれるようになる一方、長期的、継続的な研究(物理、哲学、文学などの学問に多いのではないか)や、純粋な学問(このように純粋という言葉をつかうのが適切ではないかもしれんないが)が衰退していき、いずれは、大学の研究自体が厚みのないものになっていくのではないだろうか。
私の専門の強磁場関連では強磁場超伝導線材の開発、次期電気デバイスの基礎物性の研究、磁場中結晶育成装置の開発と実用化が、他大学や企業と共同で進んでいる。学生も理学部(主に物理)、工学部の大学院生を受け入れて、実験、セミナー、論文作成の場を通じて教育を行っている。たぶん、このような研究教育形態が大学審議会の理想の一つであろうが、やはり上にのべたような問題を含んでいる。金研では毎年数人の教授が退官されるが、最近は助教授が昇格してひき続いて研究を発展させていくということは徐々に少なくなり、研究室を解体してしまうことが多くなっている。もちろん、人事交流のきっかけになって新しいアイデアを起こすきっかけにはなると思うが、これ以上このような解体が続くと、先にも述べたような長期的な、金研でしかできないようなユニークな(伝統的な)研究が衰退し、またテーマがころころ変わることで、技官など職員への影響も大きくなるのではないだろうか。金研の特色は、新しい金属材料や素材を社会に提供していくだけではなく、それらの基礎的な物性を理解することを目的として、超伝導体や酸化物磁性体、希土類、ウラン化合物の磁性の研究を行なっている。これらの研究は物理的な面白さを発見するという意味では社会に貢献しているが、すぐに社会(産業界)に貢献するわけではないので、ますます肩身のせまい思いをすることになるのだろうか。このような物理的な研究が衰退すれば金研、あるいは大学自体の特徴を失うことになってしまう。
将来の大学、あるいは学術研究、教育の発展は、大学審議会のまとめのような定規をすべての大学にあてはめるのではなく、大学職員が学生とともに議論しあって進めていくものだと思うし、我々もそのような理念をつねに持ち続けなければならないと思う。
なお、大学審議会のホームページアドレスは、こちらです。「中間まとめ」の全文、審議会の議事録などを見ることができます。