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国立大学の独立行政法人化に関する声明

[he-forum:690]より転載.

平成12年3月13日
国立17大学人文系学部長会議

 およそ一国の教育・研究はその社会の未来の命運を握るものであって、目先の損得や制度上のつじつま合わせによって左右さるべきものではない。そのような観点から、我々は日本における人文・社会科学の教育・研究の一端を担う者として、現在進行中の「独立行政法人通則法」(以下 「通則法」 という)に基づく国立大学の独立行政法人化の動きに対しては、重大な懸念を表明せざるを得ない。

効率性の追求が教育・研究にもたらすもの
 まず第一に指摘しなければならないのは、「通則法」によって規定されている独立行政法人の目的が「事務および事業」を「効率的かつ効果的に」行う点にあり(第二条、第一項)、それをそのまま教育・研究機関に適用することが極めて大きな危険を孕んでいることである。大学が、その教育・研究活動において社会的要請に応え、一定の成果を挙げなければならないことは言うまでもない。しかし、それは独立行政法人化が求める「効率化」によって成し遂げられるものではない。とりわけ人文・社会科学の多くの領域において、その成果は数値にあらわすことによって短期的に評価できるわけでない。一見すると非効率な「人間」や「社会」に対する省察が、最先端の応用科学とは別の意味で我々の「文明」を支えてきた。このような人文・社会科学の成果に関して、「効率性」という評価基準を単純にあてはめることの愚は火を見るよりあきらかである。
 教育においてもまた然り。人文・社会科学系高等教育機関の多くが目指す、「知識」よりも「知恵」をそなえた人材の育成という目的は極めて息の長い評価を必要とするものである。短期的な効率の追求は、このような目的を見失わせるものでしかない。

教育・研究機関の自律性・独立性
さらに、それと並んで大きな問題は、「通則法」によって主務大臣に認められている大幅な権限が、高等教育・研究の創造的展開に必須の要件である教育・研究機関の自律性・独立性と相容れないということである。主務大臣には法人の長、監事、役員の任命(第20条)から中期計画の認可(30条)、組織の改廃(35条)にいたる大きな権限が付与されている。一方で国際的に通用する研究を求めながら、他方でこのように国際的にも例をみない大きな制約を大学に課すのは矛盾ではなかろうか。確かに、大学をはじめとする教育・研究機関が社会、とりわけ地域社会からの様々な要請に応え、その評価に曝されなければならないのは当然である。だが、教育・研究機関の自律的・主体的運営の保証は構成員の自由で主体的な思考と不可分であり、その自由で主体的な思考が、柔軟な教育や創造的研究の源泉となっていることを忘れてはならない。

更なる大学改革の推進に向けて
 我々が最も危惧するのは、現在語られているような形での独立行政法人化が、効率性を強制し、組織の自律性を否定することによって、多くの大学で主体的・創造的に取り組まれている改革の動きの息の根を止めかねないことである。大都市圏の大学のようにマスメディアに大きくとりあげられることこそ少いが、いわゆる地方国立大学においても、先進的な様々な試みがなされている。そのような試みは、21世紀という「地方の時代」、諸地域の多様な発展が社会全体の豊かさを保証しうる時代、に向けて、それぞれの地域で興っている個性的な文化創造への動きに連なるものである。このような時代に大学にもとめられているのは、旧弊を脱し、社会的な要請に応え、地域社会に対して開かれた存在となることであり、そのために痛みを伴う改革が必要なことは当事者である我々が日々強く感じているところである。
 「通則法」を多様な条件のもとにある国立大学に対して一律に適用することは、単に混乱と改革の後退をもたらすのみである。とりわけ、困難な条件の下で創意工夫をこらしている地方国立大学の内発的改革に対して致命的な打撃を与え、人文・社会科学の教育・研究の存立基盤を潰滅させかねない。今、真に必要なことは、国立大学で取り組まれているさまざまな大学改革の成果を再点検し、それを更に推進するための有効・適切かつ多様な方途を探ること以外にはありえないであろう。


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