戦争による荒廃と混乱の惨たんたる状況の中から、生活と権利を守るために多くの日本国民はたちあがり、労働運動も急速に、未曾有の盛り上がりを示した。東北大学においても、敗戦の翌年(1946年)には各部局につぎつぎと組合が結成され、47年2月には東北大学職員組合連合会(前身)が発足した。しかし事務局職組の脱退によりすぐに瓦解するなど、紆余曲折の末、現在への流れをくむ新連合会が正式に発足したのは、新制大学移行後の1949年10月29日であった。当時組合は、大学法反対、首切り反対、越年資金などで積極的闘争をくむと共に、文楽の上演、井上頼豊音楽会をひらくなど活発な運動をすすめた。
しかし、あいつぐ役員の辞職、事務系職員や金研職組の脱退、等々、組合運営上の困難は続いた。それは、新しい世界支配をねらうアメリカ帝国主義による占領という日本国民の新たな不幸―反共攻撃、弾圧、労働基本権の剥奪、そして戦後の再出発における労働運動の分立―が多かれ少なかれ東北大学における組合運動にも反映したものであった。
1945年8月15日、天皇制政府は、ポツダム宣言を受諾して反ファッショ連合国に無条件降伏した。ポツダム宣言は、軍国主義の一層と平和的、民主的な日本の建設を要求し、天皇制の野蛮な専制支配と侵略戦争に苦しんできた日本の人民がたちあがるのに有利な条件を与えた。しかし、同時に、ポツダム宣言の実施を監督した占領軍が、新しい世界支配をねらうアメリカ帝国主義の軍隊であったことは、日本の人民に新たな困難な条件を与えることになった。
当時のわが国土と人民は、戦争による荒廃と混乱のなかで惨たんたる状態にあった。敗戦の年の工業生産は、戦前の1〜2割にさがり、米の収穫量は主要量の半分そこそこにしかならず、1,000万人におよぶ失業者が巷にあふれ、住む家もなく、また、物資の欠乏と飢えに苦しめられていた。
これにたいして日本の政府と支配階級は、国民の苦しみをよそに、軍や政府の物資を横領、隠匿し、生産をサボっていた。労働者をはじめとする広範な人びとは、自分たちを戦争にかりたて、このような敗戦後の苦しみにみちびいた支配階級の腐敗した行為につよい不満をいだき、生活と権利のためのたたかいに立ち上がりはじめた。
労働組合の組織化はGHQ(連合国軍総司令部)の労働組合結成促進指令などの占領政策にも支えられ、短期間に飛躍的拡大をとげ、45年末には戦前の最高水準にせまり、46年末には12,000組合、368万人という規模に達した。そして闘争のかたまりの中で、地方的共闘組織や、産業別の全国組織もつぎつぎに結成された。そのなかで、46年1月には、社会党支持を前提として、戦前からの反共、労資強調主義の路線をひきついだ日本労働組合総同盟(総同盟)が事実上発足した。
労働組合は、ストライキ、デモ、生産管理など創意を発揮して闘い、未曾有に盛り上がった。これを背景に、46年4月には、幣原「国体護持」内閣を倒し、天皇制絶対主義の息の根を止め、さらに5月1日の戦後第1回メーデーでは50万人が「人民広場」(皇居前広場)を埋め、5月19日の食糧メーデーには25万人が参加し、後継吉田内閣の成立を大きく揺るがした。8月には、産業別の諸組織を基礎として、政党支持の自由と組合民主主義の原則、世界労連への参加を掲げた全日本産業別労働組合会議(産別会議)が、組織労働者の43%にあたる21単産、156万人を結集し、階級的労働組合運動の全国的な中心として結成された。しかし、わが国の労働組合運動は、戦後の再出発において、2つの全国組織の分立を余儀なくされた。
吉田内閣の反動政策のもとで、生活と権利を守る闘争はいよいよたかまった。電産を中心とした産別会議の46年10月闘争の勝利をへて、12月から、官公庁労働者の全官庁共闘を中心に、人民の生活危機突破を要求する2.1ゼネストが準備された。47年1月には、産別会議、総同盟、全官公庁共闘をはじめ、ほとんどすべての全国組合が参加する全国労働組合共同闘争委員会が結成され、賃上げ、首切り反対などの経済要求を中心に、それを阻む吉田内閣を打倒し、民主政治に道をひらく政治的課題を提起し、2.1ゼネストの準備が全国的にすすめられた。
しかし、アメリカ占領軍は、前日にゼネストを禁止し、労働組合運動、民主運動の弾圧者としての本質を明白に示した。ゼネストは挫折したが、労働組合の巨大な統一行動は、労働戦線統一の気運を前進させ、産別、総同盟をはじめ約40団体446万労働者の統一組織として、全国労働組合連絡協議会(全労連)が結成され、その後の労働組合運動に重要な役割をはたした。
47年には、東欧で人民の民主主義革命が勝利し、アジアでは中国の革命戦争が全面化し、資本主義各国の労働運動、民族解放運動も大きく発展した。これにたいして、アメリカは、3月のトルーマン宣言がしめすように、社会主義陣営の発展と資本主義国の革命運動をおさえるため、「ソ連封じ込め」の名のもとに新たな侵略戦争の準備を開始した。アメリカの対日占領政策も、中国革命の進展に直面して、日本をアジア侵略の拠点とする政策へ急速に転換していった。対日支配を確立し、日本の軍事基地化を推進し、日本独占資本を復活させ、「反共の防壁」とする政策を露骨に示し始め、ポツダム宣言を公然とふみにじって、労働運動、民主運動の全面的な弾圧にのりだした。
アメリカ占領軍は、「自由にして民主的な労働組合運動」を合言葉に、産別会議、全労連の破壊をめざし、その庇護のもと、47年、48年をかけて、産別会議とその加盟組織の内部に「民主化同盟」を名乗る反共分派組織がうまれ、組合を内部から破壊する組織分裂策動を開始した。総同盟は、48年6月に全労連を脱退し、反共分裂工作の先頭にたった。
一方、直接的な弾圧も強化され、48年7月、マッカーサーの一片の書簡と政令二〇一号で、250万公務員労働者から、憲法に保護されたストライキ権と団体交渉権を剥奪した。こうして、戦後労働運動の大転換とも言うべき1949年夏をむかえた。
社会主義中国の誕生、資本主義の戦後最初の恐慌などに直面し、日本の侵略基地化の推進、「経済9原則」にもとづく日本独占資本の復活を急ぐため、アメリカ占領軍は、労働者階級と民主勢力に激しい全面的な攻撃をかけた。直接的弾圧と分裂政策、松川事件その他の謀略事件のデッチあげによって労働組合の抵抗をおさえ、数十万労働者の首を切る行政整理や企業整備を強行した。そして、労働戦線では、総同盟、反共「民同」勢力が主導権を握り、アメリカ占領軍の指導で、50年7月に日本労働組合総評議会(総評)が結成された。
「GHQの道具」として成立した総評は、50年6月に勃発した朝鮮戦争に対してアメリカを支持し、レッド・パージにたいしても基本的に支持の態度を示した。また、50年8月には全労連が解散させられ、産別会議は力を失い、戦後の階級的労働組合運動は、大きく後退した。このような、戦後労働運動のもっとも重大な転換的を前にした1949年10月に、東北大学職員組合連合会は創立されたのである。
45年10月に、食糧危機対策、生活をまもるため全国各地で教員組合の結成がはじまり、12月には、日教組の前身である全日本教職員組合(全教)、日本教育者組合(日教)が全国組織として結成された。宮城県下でも、46年6月に、宮城県教職員組合が作られ、教職員組合の地方組織として活動を開始している。
46年3月の労働組合法施行の頃には、各地の大学・高専・高校で、学園民主化、生活防衛のための教職員組合の結成がすすみ、東北大学内でも、この頃に各部局で組合が結成された。この各地での運動は、2.1ストをめざして全国組織の結成へと進み、46年12月に全国大学高校高専教職員組合協議会(大学高専教組)が成立した。これはさらに、翌47年6月に、全教協、教全連と合同して日本教職員組合となった。
学内では、生活防衛と事務系職員・助手の待遇改善を主としてめざした組合が各部局にできたが、47年2月に、学内の統一組織として東北大学職員組合連合会が、金研、工学部、本部、農研、病院の参加によって結成された。
しかし、すぐに事務系と教官系の対立が表面化し、事務局職組の脱退によって瓦解している。脱退した事務局職組を中心に事務職員の全学組織をめざし、47年5月15日に、東北帝国大学職員組合が結成された。教員系組合と事務系組合が並立し、学内の統一組織は消滅したが、各職組の協議の場として東北大学内各組織協議会がつくられ、学内組織の統一を保つ努力がなされている。
当時の上部組織との関係は、学内職組と師範、工専職組とが宮城県大学高専協議会を結束し、それが、宮教組と宮城県教組協議会を組織し、それを通して日教組につらなっている。47年6月に、奈良市で開かれた日教組結成大会には、教官系、事務系各1名が代表として参加している。
48年暮に、再び学内統一組織結成の気運が高まり、現在の職員組合の母胎ともいうべき東北大学職員組合連合会が結成された。この連合会には、理学部、医学部(教官系以外の職員)、工学部、農学部、農研、金研、事務局の各職員組合、医学部教室員(医学部と病院の教授を除く教官系職員など)が加盟している。
翌49年5月31日に、国立学校設置法が交付され、東北大学は、第二高等学校、宮城師範学校、仙台工業専門学校ほかを吸収、合併し、新制大学として発足した。従来、師範、工専職組と県大学高専協議会を組織していたが、この結果、同じ東北大学内の職組となり、組織の機構上に問題が生まれた。6月頃から討議され、9月末には新連合会発足準備会をもち、数回の会議を経て、10月29日に総会を開き、「従来の連合会及び大学高専協議会は発展的に解消し」新連合会が発足した。これには、旧連合会加盟職組と、旧師範と旧工専(南六軒丁職組と称す)が加盟し、10単組、約1,700人(組織率約40数%)を組織した。
48年暮の発足間もない旧連合会は、学内民主化の視点からまず学長選に取り組んだ。連合会の推薦者を出す方針をたてたが、各学部の思惑などで決定に至らなかった。また、学内民主化のため、人事と事務機構の合理化、民主化をとりあげている。
49年前半の主な活動は、「大学法」反対運動である。48年3月、「大学理事会法案」構想が出され、同年10月、「文部省大学法試案要綱」が発表された。「試案」では、大学の目的に、「公認サレタ職業及ソレニ準ズル職業ニ適スル専門家ノ養成」・「国家並ニ大学ノ所在スル地区ニ特ニ有用ナ応用研究」の項があり、プラグマティックな線が前面に出された。また、学内の最高決定機関として「大学管理委員会」が設置され、文部大臣任命(国会の承認)3名、都道府県知事任命(各議会の承認)3名、同窓会代表3名、学長1名、計10名から構成され、民意反映の名のもとに学外者を過半数導入し、「大学の自治」の破壊に連なる内容をもっていた。
一連の「大学法」にたいして激しい反対運動が展開された。「理事会」案が出ると、学生は、おりからの国立大学授業料3倍値上げとともに反対し、48年6月に、全国114校のゼネストを闘い、その中から、「平和と独立、民主主義、より良き学生生活のために」をスローガンとした全学連を結成した。そして、「大学法」が出るといち早く、48年11月に「大学法学生案」を発表している。
日教組は、「理事会案」反対をかかげ、大学高専部では「理事会法案対策委員会」を設け、本格的な研究討論と反対運動にのりだした。「試案」が出ると、「日教組案」作成のため小委員会を設置し、49年2月の別府での日教組第4回臨時大会で「日教組大学法試案」を採択した。ここでは、文部省案の職業教育重視にたいして基礎的研究の重視を、大学管理委員会にたいして、教授・職員・学生の代表から構成する全学自治協議会、その執行機関としての運営委員会の設置を対置している。文部省案への対案には、教育刷新委員会案、国大総長会議案(我妻案)、東大修正案があるが、ともに大学の自治を教授会の自治と規定しており、日教組案・学生案が、全構成員の自治の理念を法案化している点に注目される。
3月の第5特別国会上程が伝えられると、法案反対の地区ごとの共闘組織ができ、3月5日に、日教組・全学連・民科・各大学組織で大学法案対策全国協議会が結成され、12日に第1回大会を東大で開き、本格的な反対運動が開始された。この全国的な動向のなかで、学内でも、学生とともに大学法案対策協議会が作られたようである。しかし、「一部の学生が我々の意図より越えている」として、学生との共闘には消極的で、独自の活動を追求した。
3月23日の大学法に関するラジオの座談会に書記長が出席し、また、学内外へのビラ・遊説隊の編成など啓蒙・情宣活動を展開した。同月26日の「生活擁護・大学法反対人民大会」(於荒町小)、4月14日の「教育再建大会」に参加すると同時に、4月23日には、独自に、「大学法反対全学大会」(参加600名)を開いた。3月5日の全国協議会準備会が決定した共同プログラムに沿い、「基礎研究の軽視・ボス介入の反対」などをスローガンとし、県庁前までのデモ、藤崎前で街頭演説・ビラまきを行い、気勢をあげた。
このような運動の結果、大学法は流れ、4月末に国立大学設置法・教育職員免許法・文部省設置法が国会に上程された。これを大学法の一部実質化として、全学連はスト指令を出し、全国協議会も意見書を各方面に提出して学生に呼応した。学生は5月24日に、110校がストを敢行した。このように、大学法の成立は阻止したが、前記3法案が通過し、東北大学も新制大学へと移行した。
大学法闘争は一段落ついたが、国立学校設置法と同日に、公務員の約2割にあたる26万人の首切計画である行政機関職員定員法が公布された。特に国鉄9万5千人の首切りには、下山・三鷹・松川など一連の謀略事件をデッチあげて強行し、つづいて各省庁で行政整理が進行した。左派幹部・活動家をねらいうちにした事実上の「レッド・パージ」でもあった。東北大学でも定員は3,997人と定められ、首切り問題が持ち上がった。
5月26日に定期大会を開いたが、八木委員長が金研の関係で辞意表明したことと、国立学校設置法・定員法通過の新情勢に対応するため、6月24日に臨時大会を開いた。大会運動方針案には、教育文化防衛として非民主的文教法案撤廃・思想言論の自由・学園民主化として3者協議会の設立・生活権擁護として首切り反対・低給与・凹凸給与反対が盛り込まれている。また首切り対策委員会が設置され問題に取組んでいる。東大の300名首切り案など、大学関係でも具体的な動きが始まり、金研でも総誤記があることなど深刻化した。しかし、学長が配置転換を考慮して実出血を出さない方針をたてたので、連合会としてはこれを監視するという立場にたった。
教育文化防衛関係では、全国協議会総会への代表派遣、48年末福井県公案条例にはじまる各県公案条例、49年6月に埼玉県教育委員会が出した、教員の政治活動を禁止する教育条例などの学内版としての学内公安条例制定に反対するために、学内公安条例対策委員会を設けること、文化運動として、企画運営上に不十分さはあったが9月10日、東北劇場に文楽を誘致して上演している。
各省庁の首切りはすすみ、CIE顧問イールズが7月に新潟大で、「大学から共産主義者の教授とストライキをする学生を追放せよ」と講演し、9月には高瀬文相が主要大学学長を呼んで談合したのち各地の大学で組合役員・進歩的教授・共産党員への辞職勧告が表面化し始めた。9月に文部省は大学管理法起草協議会を設置し、次期国会提出をめざすなど、大学の自治・学問の自由にたいし激しい攻撃がかけられた。このような占領軍、政府による全面的な攻撃と、それに労働運動内部から呼応する「民同」が勢力をえて、攻撃にたいして労働組合が有効に対抗できないという戦後労働運動の重大な転換期・困難期に、新連合会が発足したのである。
発足総会議案書が残っていないが、公務員法・人事院規則等による組合運動抑圧強化のもとで、目標の明確化と合法的・かつねばり強い運動・大学法日教組案に示された全構成員の自治の理念を具体化した学長・職組・学生の代表で構成する3者協議会の設置を強調したもようである。
しかし、発足早々、総会で選出された役員があいついで辞職し、執行部の成立すら危ぶまれた。補充の交渉も不調に終り、11月19日の常任委員会(現執行委員会に相当)で、常任委員(各単組の代表)が分担代行することに決定し、常任委員会の合議制という変則的形態で難局にあることになった。
11月11日から開かれた日教組臨時大会(於塩原)には、委員長が出席した。この臨時大会は、民同派が優勢を占め、労農救援会他から脱退と、アメリカ帝国主義の政策にそった反共主義の国際自由労連への加盟を決定した。これは、当時の労働運動の右傾化の一環であった。しかし、全国的な首切り、賃上げ要求についてほとんど討論されず、多くの不満を残した。
この日教組の動きに、大会当日、大学高専部懇談会で日教組からの分離が提案された。日教組が大学法闘争に協力不充分・地方公務員法で地方公務員と国家公務員とは連合体を作れなくなる、などを理由にあげているが、日教組の右傾化にたいする反発が真因で、翌年3月までに態度を決定することになった。この大会について斎藤委員長は、「闘いたくない執行部の逃げ口上」という批判的感想を洩らしたが、分離独立問題では、12月18日に仙台で開いた東北ブロック会議で、「現状のままで、大学高専部それ自体の団結を強くする事に努力する」として独立反対を決定し、産業別統一を守ろうとした。
48年12月実施の6,307円ベースから、物価が30%上昇したにもかかわらず、「経済9原則」で賃上げストップとなり、労働者の生活苦は増大し、給与改訂・越年資金要求の闘いが強化され、一時停滞した労働攻勢が高まった。特にさしせまった越年資金要求は、困難な中で日教組代表の座り込み、活発な職場闘争におされ、東大・京大学長が国会請願におもむくなどの盛り上がりを見せた。この中央の動きの中で連合会は、越年資金・寒冷地手当の年内支給を求め、学長・庶務・会計課長との交渉をくり返し、年内支給を実現した。
しかし弱体な執行部と、越年資金闘争を組合運動と結びつけている組合員が少ないという現状から、充分に戦えなかったのが実情であった。12月には、登録人員140人を擁した金研職組が、事務系・工場職員が抜けて教官系のみとなって弱体化し、連合会を脱退した。
また、組合と政党との関係では、50年初めに実施した組合員の世論調査で、社会党支持が圧倒的という結果がでたが、「但し執行部としては組合員の多数が支持しているからとて直ちに社会党支持で行くという様には組合運動の本質上行かない。政党の問題はあくまで各自の自由で行くべきであると思う(中略)この集計結果を保守急進何れの側を問わず党利党略に利用することは組合として許されない」として、政党支持の自由を主張している。発足当初の連合会がこの政党支持の自由、さきの産業別統一を堅持している点は、総同盟や反共「民同」勢力による労働組合運動の分裂化、そして社会党支持を前提とした総評結成への労働運動の大きな潮流のなかでは注目すべきである。
1950(昭和25)年の年があけて、越年資金の不足と、越年資金の出所が問題となった。学・局長交渉を行ったが、追加支給を得られず、また出所も、国と大学が折半したと判明したにとどまった。
ここで運動の重点を給与ベース改訂に移した。49年12月、人事院は7,877円ベースを勧告したが、政府は「9原則」下の賃金凍結策で実施しようとしなかった。連合会は、大学高専部などの動きに対応し、組合員の生活苦打開要求を基礎に、学長交渉、2月初めの請願署名運動を展開し、また、仙台市内全公務員の共闘を指向して、「給与ベース改訂闘争委員会」(仮称)の設置を模索した。
とりわけ、請願署名運動は活発化し、未組織部局にまで拡げ、2月半ばには署名用紙を持って5名の上京団を送り、国会・人事院・文部省へ請願陳情を行った。この盛り上りは、「学内的にもかくも団結した運動は組合始まって以来の快挙」と評価しており、さらに、電報、葉書による運動を持続した。
組合役員、共産党員に対する辞職強要は、全国的にますます拡大し、かつて南原学長が文部省の追放リストを拒否した東大でも、3月には職組三役に懲戒免職処分がなされるなど、レッド・パージが強化され、大学を取りまく情勢は厳しいものとなった。連合会では、前年同様監視を続け4月段階まで問題は生じなかった。
その他の活動としては、学内復旧、拡充のための復興計画作成にのりだし、前年の文楽に続く文化運動として、4月13日に大学講堂で、井上頼豊らを招いて音楽会を催し、さらに、「新版シベリヤ物語」を市内封切りにさきがけて上映する計画をたてている。
上部組織との関係では、大学高専部独立問題が1月29日の大学高専部委員会で討論され、栃木、静岡などの賛成、福岡、東京などの反対に分れ、連合会は、東北ブロック会議の決定にそって反対を主張した。結論はでなかったが、結局は現状維持と各ブロックに連絡員をおいて連絡を密にすることを決め、反対意見が通った形となった。
このような経過のうちに1950年4月15日、第2回定期総会を迎えた。一般情勢報告では、低賃金による生活困窮、文教予算の貧困による研究上の不自由・言論・思想の圧迫等の根源を占領=非独立に求め、米軍の日本駐留を永久化する単独講和構想が次第に明らかにされるなかで、「ポツダム宣言に基づく講和の実現促進」を強調し、講和にたいする態度を明確に示した。そして運動方針では第一に生活権の確保のため最低生活費の確保、一方的首切り、配転反対、第二に、教育公務員の職責を果たすためには職場の整備と学内運営の民主化が必要として、戦災復旧、整備拡充、「この学問文化の一大危機を打開するため一般教職員学生を含めてあらゆる力を結集して之にあたるというが如き真に民主的な傾向は現在みられない」現状で、前総会の3者協議会の非現実性から、学長、評議会と職組との定期懇談会と重要問題に関する公聴会開催の要求、第三に、思想言論の自由、進歩的文化活動、第四にポツダム宣言に基づく講和の実現促進、などを掲げた。こうして連合会は第2期の活動にはいった。