石橋内閣に代わって、A級戦犯の岸内閣が誕生するとともに、日本の軍国主義復活とサンフランシスコ体制の再編強化は、政治・経済・教育・文化の各方面にわたって推進され、労働者への攻撃も厳しさを増した。しかし、激しい矛盾の下におかれた下部労働者のエネルギーをテコに、ようやく陣容をたてなおしつつあった全国の労働組合運動は、こうした攻撃に抗して攻勢に転じていった。警職法闘争、基地撤去闘争、松川闘争、そして日教組勤評闘争、三池闘争、などを経て、日本の将来をめぐる二つの路線の対決は60年安保闘争で頂点をむかえた。
大学内においても、これらの全国的闘争への積極的合流の努力が各層の中で続けられ、新たな経験として蓄積されていった。同時に、組合連合会は、5年越しの人事院提訴闘争にとりくみ、全国大学の牽引の役割を果した。それは、組合運動が「模索」から「攻勢」へ転じた証しでもあった。
1956年末に成立した石橋内閣は、石橋が病に倒れ、1957年(昭和32年)2月には岸内閣に代わった。岸内閣は、独占資本が明確に打ち出した、軍国主義復活と対外進出路線の推進を課題とした。そのため、日本の「自主性」や「平等化」を看板に、日米安保条約の改定によるサンフランシスコ体制の再編強化を企図し、労働者への攻撃はいっそう厳しさを増した。この年の春闘は、「神武景気」を背景に、大幅賃上げ要求を中心に活発に闘われた。
連合会は、1月31日に第16回定期総会を開いた。組合をめぐる情勢では、「神武景気」の恩恵に浴する層は僅かであり、また、僅かな賃上げと交換に、職階制や労働強化、組合破壊策動の強化がされていると捉えている。学内では、「民主勢力の大きな前進があったとは認められていない」が、一部にはサークル活動をつうじ団結が地道にきづかれつつあるとしている。このような情勢報告に基づいた戦いの目標は、前総会とさしたる変化はない。経済的課題で、一律2,000アップ、最低賃金制確立、人事院勧告反対、公務員制度改悪とからんだ技能労務職の一般公務員からの切り離し反対、などが新しいものである。
1月に、給与改訂政府案が出た。行政職が、本省行(一)、出先行(二)に分割された点、技能労務職が著しく悪化した点が、人事院勧告との大きな相違であった。政府原案は7次の修正ののち、3月7日に給与法案として国会に上程された。これにたいし日教組は廃案闘争を組み、連合会も春闘のヤマとされた3月11日を単組毎の決起大会で闘った。
中央では、(昭和)32年度予算の成立、炭労、国労の実力行使の終息とともに、社会党と政府は内閣委員会に「給与に関する小委員会」を作り修正案作成を始め、日教組も廃案から修正へ方針転換した。これにたいし、連合会は強い反発を示し、「国会で戦い抜くべきであった社会党の不明確な態度」、「中央の修正闘争に対する疑問」から、連合会独自に廃案を求めたハガキ闘争を実行している。しかし、この独自闘争には、農学部、農研から、中央と連携しない闘争の有効性の点で批判がなされた。
こうして戦いは国会に移り、4月2日には給与小委員会で、形式的修正と付帯決議を決定して衆議院を通過した。大きな修正は、技能労務職を行政職俸給表(二)として一本化した点である。ところが、原案の行(二)(大学などの出先)が行(一)と一本化して、大学教職員が原案の行(一)の適用を受けることを意味するのではなく、修正案の行(一)の内部に格差が持ち込まれ、技能労務職も行政職俸給表に一体化するのではなく、名称のみの適用で実質は行(二)として分離され、結局、修正案は、形式上の大きな変化にもかかわらず実質的には原案と大差のないものであった。
衆院通過で大幅修正が不可能となった段階で、格付け、運用で有利な条件を獲得する活動が続けられた。そして、5月19日に、格付運用で一部有利となる事項を含む付帯決議をつけて、新給与法は成立した。
これ以後、枠内で有利な格付の獲得をめざす闘いに入った。執行委員と各単組の給与問題担当者からなる拡大執行委員会を再三開き、局長・庶務課長交渉、資料収集を行った。
そして、6月20日に人事院細則がでると、当局の格付作業開始前に個人別の予想格付けを完了した。しかし、人事院細則をはるかに下回る文部省暫定格付基準(文人給74号)による当局側の格付作業が始まると、連合会側の予想格付とかなりの相違がみられた。このことは、給与に関する不満がうっ積したまま解決の方向を見出せず、新給与法の新格付に期待していた組合員を憤激させ、大きな運動に発展し始めたのである。
給与闘争とならんで、官定数拡大要求がある。本学の任官有資格者は80-90%あるにもかかわらず任官率が16%にすぎない実情から、中央交渉への参加、学内交渉、署名運動に取組んだ。また、64歳以上の事務系職員への退職勧告に対し、絶対反対を主張して局長交渉を行い、大体有利な条件での退職、該当者への未勧告で終った。
平和擁護の課題では、原水禁カンパの取組み、県原水協準備会への参加、松川事件現地調査団派遣カンパに取組む等の活動がある。
この他では、従来の日教組大学部東北地区協議会が日教組東北地区協議会大学部として6月1日に発足し、大学制度研究会を盛岡で7月6、7日に開き、東北地区大学職種別懇談会が7月21日に開かれた。以上のように、第16期の活動は給与問題が中心で、重大問題化して第17期に引継がれていった。
第17回定期総会は、7月30日に非水研会議室で開かれた。情勢報告では、政府の給与改訂は根本的解決にならない点、公務員制度、大学制度の改悪が具体化してきている点を指摘し、学内では、定年制内規制度の動き、官定数増加の実現の遅れなどを述べている。
組織強化は「掛声のみ」に終わり、執行部、書記局、組合財政の強化、「子供を守る闘い」を、大学生を含めた「青少年を守る闘い」へ発展させ、全国各地の大学、各県教組と連携する必要がる、と報告している。そして、格付是正、新賃金(最低8,000円)獲得、公務員法改悪・定年制阻止等の目標を掲げた。また、今総会の特徴点に、「組織の強化について」という独立の議案が出されたことがあげられる。組織強化のための執行部強化の方策であるが、その内容は、県原水協への連合会代表を金研古川氏に依頼するなど、職場活動家との協力、そして、太田書記を書記次長とし、組合員選出の書記次長と同等の任務と権限を与える、というものであった。
第18期の中心的活動は、前期からの不当格付問題であった。組合員から強い不満の出た主な点と原因は、次の通りである。同一職場、同一職務でありながら、級別定数の制限などから異なった俸給表の適用を受けるという不合理な事例が、東北大には他大大学に比べて著しく多いという前提があり、そこへ新格付は職務内容によるという人事院細則にもかかわらず、文部省の示す便法的、機械的な作業通達にもとづき、旧俸給表の種類によって行(一)、行(二)に格付した点である。特に金研、工学部に不合理が多く、不満も大きかった。
以上の点から不当格付反対闘争が展開されるが、(1)行(二)撤廃、行(一)統合の全国家公務員の闘いの一環、(2)東北大内の給与アンバランス是正闘争の中心的な問題、と位置づけ、大学当局との交渉によるなしくずし的解決は困難と判断し、人事院提訴へと進むのである。また、この闘争は、政府・人事院の低賃金と古い身分制と職階制の打破の課題を、法的根拠をもって具体的に追給する展望をもつ闘いであった。
人事院提訴は、9月の執行委員会で論議され、10月15日に金研・工学部の積極的意見などで決定した。11月7日の委員会では提訴方法が議論され、国家公務員法86条の「行政措置要求」とするか、同法90条の「不利益処分による審査請求」とするかが論点となり、とりあえず同法89条の「処分理由説明書」の交付を申請することを決定した。
12月には局長の妨害をはねのけて、86名が各部局事務室に申請し、提訴闘争は新たな段階に入った。なお、提訴の動きは、阪大理学部、神戸大、東大電通研などでもみられ、大学部中執は東北大の提訴の支援を決定し、3万円の支出を決めている。
この他の秋季・年末闘争では、一律2,000円アップと年末手当2ヶ月分を要求し、学内交渉が、不当格付反対闘争の盛り上がりを反映して「従来みられなかった程の人数と烈しさ」で行われ、中央の低調さに比べ活発であった。10月12日に、第2メーデーの「生活と権利と平和を守る宮城県民総決起大会」に参加した。また、東大で定年制内規制定があったため局長交渉を行い、「社会保障制度の確立をみぬ限り反対」の回答を得た。
教師に対する勤務評定が、前年の愛媛県を皮切りに全国に拡大した。戦後民主教育を破壊するものとして、大規模な全人民的反対闘争が展開された。日教組は12月に非常事態宣言を発し、臨時大会で組合員1人1,000円の闘争基金積立てが決定された。連合会は、登録人員400名なので40万円という多額にのぼり、連合会活動に大きな波紋を投げかけた。
組織問題では、11月27日に第一教養部が総会で連合会加入を決議(実際には決議のみで加入せず)し、勤評問題を糸口に附属小中、教育教養部で活発な動きがみられた。
平和を守る闘いの一環として、連合会原水爆対策部主催の科学技術者懇談会第一回会合が、12月7日に開かれた。「身近な問題を通して科学者技術者として発言したい事が沢山ある」という趣旨で、尾田義治「訪ソ旅行の印象」、鈴木平「三年の英米留学から帰って」の報告をもとに、研究体制の欠陥と矛盾などが活発に討論された。
翌58年は、「なべ底景気」と呼ばれた不景気の中で始まったが、勤評闘争の激化、第二次岸内閣の高姿勢、警職法闘争で特徴づけられる年となった。サンフランシスコ体制下の反動的文教政策推進の障害物である日教組を骨抜きにするために、勤評は最大の武器と考えられ、岸内閣は瀬尾弘吉を文相に起用して強行を策した。これにたいし、教師が、生徒の父母である労働者・農民と力を合わせ、地域住民の支持を得て反対闘争を進め、共同闘争は県単位から全国的規模へ拡大し、勤評闘争は後の大衆的政治闘争に幾多の教訓を残した。
このような情勢のもとで、第18回定期総会を2月4日に迎えた。世界的には平和勢力の前進・結集がみられるが、国内では軍備拡張政策がとられ、勤評も再軍備を容易にする文教政策であると捉えている。勤評闘争については、日高教との共同歩調も崩れず、父兄・他労組に支えられながら組合員1人1人が苦闘の中で成長し、日本の労働運動の指針であると評価している。
連合会活動では、公務員制度改悪反対の闘いが重大な課題となってきているが、各単組の実力の不均等による統一行動の困難さ、組織率66%(2,400人)という欠陥を抱えている。しかし、人事院提訴の闘いは、「困難な情勢下にあって新たな局面を開きつつある」と評価している。そして今後は、研究活動を妨げない範囲での大衆動員と職場集会の強化、各単組の連合会決定事項実施の責任制確立を計る必要性を述べている。第18期の目標として、不当格付是正、最低賃金制確立と一律2,000円アップ、公務員住宅の大幅建築と入居基準引下げなどの生活向上の闘い、公務員制度改悪反対、官定数増加、勤評などの反動文教政策反対、その他の闘いをかかげた。
なお、勤評闘争基金総額40万(組合員1人約180円)は、納入期日に拘束されず「長い時間をかけて組合員の同意を得つつ、無理のない方法で大会決定を実施する」と決定している。
また、役員任期について、人事院提訴など長期闘争が多くなり、半年任期では交代期にブランクが生じるとして1年交代制を提案した。討論の末、金研提案の「任期の半分を経過したら辞任できる。後任は出身単組が責任をもつ」という付帯条件をつけて可決された。委員長、書記長、会計の3名が留任し、「事実上は1年任期制に入った」と評された。
第18期の活動は、人事院提訴と勤評闘争が中心であった。前年末に各部局へ「処分理由説明書」交付申請を出したが、局長に受理させるのに再三の部局交渉、局長交渉を必要とし、3月初旬ようやく実現した。そして、事務局の回答を催促しながら、提訴方式について二度の申請提出者全員集会を開いた。そこで、提訴者が意見をのべる場が保障される「不利益処分による審査請求」方式に決定した。
事務局の回答ひきのばしにあったが、日教組弁護団とも協議し、再三の交渉と回答期限通告により追いつめ、5月初旬に回答を引出した。回答は、「格付処分は不利益処分とは考えないので説明書を交付する必要はない」と部局長を通じて口頭で行うのみであったので、回答は問題を解明していない不備なものであるとして再調査を要求した。そのうえ、弁護団と協議し、行(一)に格付されたと仮定した場合との給与の差額の支払を、50名が当局に請求した。
ここで大学当局を直接交渉の相手とする段階を終え、7月23日、人事院へ132名が「不利益処分による審査請求書」を提出した。このように、一段階進むのに難解な法律的処理と、局長交渉9回、上京5回という地味で忍耐強い努力を必要とした。なお、全国的影響を持つこの闘いは、日教組大学部の闘争計画に組み入れられて支援を受けた。
勤務評定は大学附属学校にも強行され、大学内に勤評がおし寄せたため、連合会は日教組中央委員会に緊急提案しその結果、3月末日に全国附属学校代表者会議東日本集会が、最も強い闘いを展開していた福島で開かれ、予想以上の盛会となり、特別昇給を拒否して闘争を組むことを決定した。宮教組、高教組との共闘をめざした協議、3月8日「賃上げ、教育防衛県労働者総決起大会」、4月30日に県教育委員会が実施を強行採決したことに抗議する「5.11勤評反対大会」への参加、反対署名などの活動も行った。
一方、闘争基金は、連合会始まって以来の高額なため紛糾した。実人員1人180円を1人120円に引下げたが、5月28日の委員会では否決された。医教・抗研・川渡は登録人員、他は実人員1人120円の募金に、連合会の積立金8万円を加え、3月31日までに納入すべき20万円を12月を目標に集めるが、宮教組から無利子で20万円借用して6月に納入しておく、という執行部案を作成し、6月の委員会で承認された。こうして日教組の決定を守ることができたが、「ここに至るまでの困難は再び同様な基金徴収等がひきつづいて行われることを不可能と思わせる」というほど困難で、この案でも容易に解決しなかった。
事務系職員への強化と教官への実施を内容とした、大学関係勤評の6月1日実施の情報が入り、今までの「他処ごとめいた感じ」はいっきょに払拭された。全組合員に対してアンケートを取り、有害と思う者65%(無害は6%)、能率を高めると思う者1%(思わない者73%)の結果から、勤評は有害無意味の判断を下し、無害化・骨抜き闘争から廃止闘争への転換を打ち出した。これとならび、全部局の事務長に、「事務行政を権力支配するための方便で大学行政の自治を侵害するものなので絶対反対」の立場をとることを求めた要望書を提出して直接交渉し、「現行勤評に客観的基準なく、給与是正以外に意味なし」という回答をひきだしている。
この他、官定数増加問題では、75%の増加が決定し、内部の民主的配分の闘いへ移り、反動文教政策との闘争では、日教組の「民主教育確立の方針(草案)」の下部討議との関係で、4月16日に「第1回大学教育制度研究会」を開き、また、4月22日には、「第2回科学技術懇談会」を「研究と組織体制の問題をめぐって」のテーマで開いた。平和を守る課題では、原水協に加盟して国際行動デーに参加、署名運動、原水禁に本大会・世界大会にむけた募金活動などの原水禁関係と、総選挙にあたり、立候補者にアンケートをとって集計結果を情宣するなどの選挙闘争がある。
なお、2月に懸案の人事院登録を完了した。
人事院提訴闘争の盛上りによる団結の強化、高額の勤評基金が提訴闘争募金と共に可決されたことにみられる組合員の意識の高揚、諸会議の出席状況の良さ、勤評アンケートの意見に現れた組合員の気迫、科学技術者懇談会出席者の多彩さなど、「新しい気運は随所に盛上りつつある」という情勢のなかで、7月25日に第19回定期総会を開いた。情勢報告は前期とほとんど変わらないが、「なぜ大学の組合は強力にならないのか」という問題が検討され、講座制が下級研究者の団結を阻む作用をする点、民主化を一番望む若い研究者、雇員層が、研究と教育の推進者なので組合活動が困難な点、などがあげられている。闘争目標では、公務員制度、大学制度改悪が津夫面の重大問題だとして、前期の目標を引継いだほか、大学制度改善の闘いとして、教室系雇員制度改善、学内の研究体制の民主化などがかかげられた。
討論では、工学部から勤評募金にからんで日教組登録人員削減の提案があり、新役員協議のうえ委員会で決定することになった。また、書記局充実に関して議論となり、専従書記に対し、勤務状況に関する意見なども出され、書記自身に釈明を求め書記局の充実をはかることを結論として終った。こうして、むこう1ヶ月の活動に入った。
7月の提訴に対し、9月16日付で人事院事務総局公平局長から、給与関係の苦情は「行政措置要求」が妥当という見解を示してきた。連合会は、不利益処分として審査できない積極的理由はないとして、大学部総会出席中の代議員2名を人事院に派遣して交渉にあたった。交渉の過程で人事院側の見解が未統一であることが判明し、連合会の要求に応じ、人事院が説明会を開くこととなった。10月3日、人事院仙台地方事務所で100名を集めて行われた。ここで示された人事院の見解は五点で、主要な点は、給与関係の苦情は本来給与法二一条で処理すべきだが、現在死文化して適用処理ができないので「行政措置要求」を使っているという点であった。これに対して連合会は、人事院見解は国家公務員法・給与法・人事院規則の違反行為であると判断し、「不利益処分による審査請求」方式の推進を執行委員会で確認した。
8月に愛媛大学の田川助教授が、勤評闘争参加を理由に処分された事件がおこり、大学への勤評攻撃も強まった。連合会は闘争基金の処理に苦労を重ね、総会で提案された登録人員の削減は、宮教組との折衝、それを通じた日教組の平垣書記長との接触などで、宮教組から20万円借用して日教組に返済し、登録人員は来年1月から100名とするが、実質は本年9月から100名とし、9-12月間の300名分は宮教組が負担することで決着がついた。
具体的活動では、日教組内部の意見対立に緊張しながら、「勤評は戦争への一里塚」という広い観点から大学内部の闘争の盛上げをはかった。県共闘会議への参加、9月の道徳教育指導者講習会反対闘争で、東北大会場使用拒否申入れ、同月の「全学研究懇談会」の開催、9月の学生スト処分問題での学生部長交渉などの活動を行い、支援的行動が中心であった。
この他には、官定数増加闘争と9月の第3回科学技術懇談会の開催がある。官定数の配分で技官系が冷遇され、組合側は民主的配分を主張して局長交渉を重ねた。その中で、「技官の配当権限は局長にある」という言明を、学長の権限をおかし大学の自治を破壊するものとして非難し、謝罪の要求と局長追放運動をおこすことを全学に呼びかけている。
勤評闘争が最終段階に入った10月、政府は、警察官職務執行法改悪(いわゆる「警職法」)を突然国会に提出した。政府は、9月の藤山、ダレス会談後、安保条約改定の準備を開始し、その前提として、労働運動、大衆運動を意のままに弾圧するために警察官の権限を強化し、大衆運動の事前禁止、集会の制限、個人の住宅の捜査権などを与えようとした。労働者、知識人、学生、ジャーナリストなど広範な諸階層が、治安維持法の復活としてこれに反対し、全国的な共闘組織が急速に結成され、社共両党を含む共闘がいっきょに表面化し、発展した。
連合会は、10月25日の「警職法粉砕県民大会」(70名参加)11月7日の「提灯デモ」(100名)への参加など、県共闘会議に参加する活動とともに、学内の共同闘争を展開した。各単組の説明会、署名運動、評議会、教授会への要望書などの情宣活動をふまえ、10月30日には、若手研究社団、学生自治会とともに警職法反対共闘会議を結成し、平和と民主主義のための全学的な闘いを組織した。11月5日には、連合会主催の大演説会を全学集会に切替え、抗議文を発表し、さらに26日にも全学集会を計画した。これらの闘いは学内の教官の立ち上がりを助け、文科系教官を中心に、経済学部教授団の反対声明発表、講師活動、理工系学部への働きかけなど、教官の活動がみられた。
これら全国の諸闘争の結果、警職法は事実上廃案となり、日本の大衆運動はかつてない成果をあげ、連合会も「労働者階級を中心とする広範な統一行動が偉大な力を発揮するものであり、それだけの闘争力が我々自身にあることを証明し、今後の闘いに勝利の展望と確信とを与えるもの」と総括している。これは、提訴闘争による組織の強化とともに、共同闘争と勝利の経験は、つぎの安保闘争を闘う基礎的条件を与えるものとなった。
なお、松川事件裁判の最高裁判決をまえに、10月末の松川大行進や現地調査に参加し、運動の盛上げに協力した。また、10月の日中国交回復運動の集会にも参加している。
安保条約改定の日米交渉が、1958年9月、藤山外相の渡米により本格的に開始された。アメリカは、極東での侵略戦争と民族抑圧の体制を補強し、日本をいっそう強くその侵略政策の道具とするために、安保条約の改定に積極的にのりだし、日本も、安保条約の旧条約の対米従属的性格を改善するためと宣伝し、これに応じた。
安保改定による日米軍事同盟の再編強化をねらう日米支配層の策動に対し、労働者階級を中心とする日本の広範な民主勢力は、1年以上にわたる持続的な、かつてない規模の激しい闘いを展開した。警職法闘争での民主勢力の共闘の前進という成果の上に、3月28日に、「安保条約改定阻止国民会議」が、社会党、共産党を含む民主諸団体の共闘組織として結成され、歴史的な安保闘争の推進力となった。中央とともに、県市町村段階に地域共闘組織が作られ、12月には900以上に達し、下から全国的な運動を支えた。また、この前後から、職場、学園などで、安保問題についての研究会や講演会が盛んになった。そして4月15日を皮切りに、60年10月まで23次にわたる大規模な全国統一行動が展開された。
連合会は、人事院提訴と安保改定阻止闘争を並行してすすめて行った。
1月6日に人事院から正式却下の通知に接し、執行委員会では、却下を不当として日教組による裁判所提訴で闘うか、行政措置要求に切換えるかで議論があった。そこで、3月2日に提訴者全員集会を開き、前者の方針をとる事に決定し、日教組に申し入れた。日教組からは、4月半ばに行政措置への切換えが妥当という回答があったが、趣旨を誤解したものとして再建等を求めた。再回答は遅延し、電話・葉書・直接催促などの結果、7月に入って回答があり、給与法二一条による提訴に決定した。給与上の苦情を取上げる唯一の条項として、昭和25年に制定されながら、死文化していることは、公務員の権利からみて重大であり、これを活用することが、今後の諸闘争に極めて重要であるという権利擁護の観点からであった。
3月頃には、県下でも各労組が安保問題を取上げ、主として法学部の専門家が講師などの啓蒙活動を開始した。連合会が安保問題を初めて取上げたのは警職法闘争の時だが、安保そのものに対する議論はされなかった。しかし、3月末には、安保反対の地区共闘組織の結成を文書で労評に申入れ、4月15日の懇談会、20日の県活動者講習会、22日の革新候補車パレードに参加し、組合員の啓蒙と運動の盛上げのため、28日に「安保条約改定反対学内討論集会」を、祖川法学部教授を講師として開いた。そして25日に結成された「安保阻止県民会議」に加入し、安保反対の県内の統一戦線に結集していった。さらに、6.25安保改定阻止第3次統一行動日には、吉田県原水協事務局長を講師として講演会を開き、夜の県決起大会、デモにも80名が参加した。この段階で、各単組・院生・学生などの間に安保問題が活発となり、ようやく本格的に取上げられてきた。
学外での統一行動の経験から、全学的な統一組織の結成が要請され、7月9日に、警職法問題に活躍した若手研究社団の申入れで「学内安保対策会議」を開き、闘争のための学内センター設置に合意し、15日には「東北大学安保改定阻止全学連絡会議」が、連合会を中心とした院生・研究生・助手との共闘組織として結成された。そして、部局毎に共闘組織の結成を呼びかけた。また、連合会は、工学部などと協力し、組合員の認識をたかめるための情宣資料として「安保条約問題とはなんでしょうか」というパンフレットを出した。
なおこの段階での安保問題は、「戦争か、平和か」という平和論的立場から取上げられ、このため、軍事研究反対・原水禁などの平和擁護の課題に取組んできた連合会は、比較的容易に安保反対をかかげ、活動することが可能であった。
この他では、退職勧奨問題がある。2月に、「文部省事務系職員の進退取扱い要綱案」が出され、5年間で高齢者を中心に3,800名を退職させようとした。連合会は補充をともなわない退職勧奨は、停年制ではなくて首切り定員削減をねらったもので、戦後最大の首切りであると判断し、局長交渉などでその本質を追及した。大学では、従来通りとして64歳以上に勧奨を始め、それへの抵抗を強めた。
3月の「松川事件バス大行進」への参加、原水禁の国民募金の取組みがある。なお、県知事選では、労評中心に、社会党、共産党の統一した革新戦線が県民の期待に応える唯一の道であると主張し、この革新戦線が不調に終ると、「社会党に人がいなければ共産党の鈴木氏を推して保守と対決すべき」だとし、社会党に「階級政党としての態度」を要望している。
こうして、7月30日に第20回定期総会を開いた。情勢報告では、「社会主義が資本主義を圧倒しつつある」なかで、独占資本は内外の民主勢力の台頭を恐れて安保条約を改悪し、安保体制にその命運をかけ、資本集中と合理化をねらっていると捉えている。この情勢下で、安保体制を打破し、生活と権利を守る闘いは広範な統一行動が要請され、そのためには労働者階級の統一と、大学教職祖の全国組織体制の確立が必要であり、組織の反省と、大学の教育研究機構の民主化が基礎であるとした。
また、大学制度改悪、文部省の大学介入の強化という事態に対し、民主的な大学の在り方の検討と、国民所階層のかたまりの中で大学の自治を守り、大学の民主化を闘いとる必要性を述べ、この大学民主化の課題は、安保闘争の中でも一貫して追求されることになった。そして、闘いの重点目標として、安保条約廃棄、改悪阻止等の平和と独立の課題、民主的人事委員会創設、予算公開等を含む大学民主化の課題、首切り、不当処分、弾圧反対等をかかげた。
なお、「組織強化について」が提案され、連合会の弱点を克服し、「権力と対決する組合」となるための問題提起を行ない、継続討議を訴えた。その論点は、(1)未成熟な組合民主主義=大学部総会-連合会-各単組、(2)情宣活動の不充分さ及びサバ読み、(3)組織外対策の欠如、(4)連合体組織から単一体組織への意義、の4点にわたり、特に単一化の方向を打ち出した点に注目される。このための組織小委員会の設置、各単組での継続論議を総会として決定した。
第20期の活動は、いうまでもなく安保闘争が基軸であった。総会頃から、従来の平和論的立場に反省が加えられ、「安保体制の打破」、つまり政治的経済的に日本を縛りつけている体制そのものの廃棄を目標とする方針がたてられ、賃金、停年制、提訴闘争も広い意味での安保闘争の一環として考えられるに至った。安保の取上げ方の転換は、11.27第8次統一行動に明確に示された。調印が明春1月に迫るなかで、全国民の力で調印阻止を闘う上で、組合員に安保反対の強い決意を固めさせるため、連合会は統一行動を重視した。改定交渉の打切り、廃棄交渉の開始を求めた声明を発表し、徹底的な署名活動と大量動員を指示し、さらに25日には、岩村三千夫(中国研究所理事)を招き、「日中国交回復と安保改定」と題する講演会を開いた。こうして、各単組の研究集会、職場討議が深められた。さきの声明では、平和の気運が高まっている時に軍事同盟を結ぶのは、国際情勢に逆行し、安保による軍事費の増大は、低賃金と高い税金、貧困な教育予算をもたらすとしている。ここに、さきの転換を象徴的に看取できる。
11.27当日は、「全学決起大会」を開き、院生を含む200名を集めて気勢をあげ、県民会議、県労評主催の夜間大会、提灯デモには、メーデー規模を上回る200名を動員した。デモでは、東北大生を含む3名が逮捕され、午前2時まで北署に抗議行動を展開した。全国的に盛り上がったが、連合会にとって第8次統一行動は、この日の闘いの実感が以後の長期かつ困難な闘いで空前のエネルギー発揮する基礎であったと評価されるほどの重大な意義をもった。12月10日の第9次統一行動には年末闘争として取組み、180名が参加した。
そして、12.21委員会で、一定の総括と闘争方針を決定した。第8次行動で、一部学生、労組員が国会構内に乱入した。「国会突入事件」から、一部極左分子の策動の排除といっそうの情宣必要を汲み取り、「大学という特殊な立場に立っての闘争」の必要を指摘した。さらに、(1)社会的影響力のある教授層対策として、教授層の安保研究会の活動とそれの部局毎の組織化の援助、(2)反対運動への事務局の干渉に対し、学長に公開質問状の提出等を通じ、大学の自治を守る運動の展開、(3)安保闘争と賃金を中心とした諸課題との結合、の三点を方針として打ち出した。
安保闘争の一環に集約された、他の闘いを見ておこう。8月10日の松川事件最高裁判決にむけた大行進への参加、9~11月に河北新報主催の防衛展が川内前で開かれたが、労評に申入れ、局長交渉などで中止を求めた。また、9月18日に学内、27日に東北ブロックの職種別懇談会が開かれ、退職勧奨、賃金、労務管理が中心課題となり、行(二)の不満が大きく出た。さらに、大学教育のあり方を検討する東北ブロック大学教育研究集会が、10月1日に盛岡で開かれた。
かなり精力的に取組まれたものに、官定数増と提訴闘争がある。前年に引続き、466名の任官定数増が割当てられた。連合会は公正な配分を要求し、教官数の増加、行(一)、行(二)で差別しないこと、全学一本で高給順に運用すること、有資格者全員の任官を可能にする定数増、警務員、用務員を事務官にすること等を要求し、交渉を繰り返した。提訴闘争では、給与法による審査請求の作業に取組み、12月20日付、連合会委員長名で138名の審査請求書を人事院に送付した。その間、単組から1~2名を加えた人事院提訴対策小委員会の設置、提訴者自身の活動を促すための方策、審査に備えて部局長等の認識を深めるための働きかけ等の内部を固める活動を展開している。
賃金要求、共済掛金の減額要求等で国公地公共闘会議が結成され、9月に「賃金問題対策集会」、11月の決起大会など、全公務員労働者の統一行動にも参加した。そして、12月の委員会で従来の反省の上に闘いの基本方針を討議し、(1)職場に賃上げをかちとる決意と団結を組織すること、(2)全公務員の団結を強化し、統一要求と職場の具体的要求の結合をはかること、等が決定された。そして、いくつかの単組で、年末に「賃金問題討論集会」が開かれた。
岸首相は、「夜逃げ同然」の姿で渡米し、1960(昭和35)年1月19日にワシントンで新安保条約に調印した。国民会議は14日に第11次統一行動を組織し、全国各地で渡米抗議集会を開いた。県内でも集会が開かれ、連合会からも50名が参加した。19日には、金・農研・工・農で、調印に抗議する講演会、職場集会がもたれた。また、連絡会議を開き、(1)未組織部局への情宣強化、(2)研究会など教官系の組織促進、(3)県民会議へ代表派遣、(4)学生との関係、等の学内の全階層を組織する共闘体制の確立をめざした。そして、大学自治、待遇改善等を絡めて情宣し、一部に生れた挫折感敗北感を一掃し、「安保闘争の敗北と考えぬ方向」へ努力した。さらに27日には学長と交渉し、安保条約と学生処分に関する事務局長発言を論じあった。これは、安保問題をより全学的規模へ拡大する効果をもった。また、「本学の羽田事件関係者(学生)に強い処分をする」という発言を、教授会権限を侵し、大学自治を破壊するものと非難し、大学自治の強化、学内民主化を訴えた。
二月には、新安保条約が批准のために国会へ上程され、審議の中で、極東の範囲、事前協議制等に関してその危険な本質が暴露された。この事は、従来の平和論的、政治論的反対でもなお納得しきれなかった人々に、批准反対、または慎重審議の意思をもたせた。それは、国民会議の「安保改定阻止、批准反対の請願署名運動」で、連絡会議として第一回分1453名、第二回分1837名という大きな成果として表れた。「くたびれた」、「スケジュール動員」などから集会参加者も一時期低下したが、4月15日~26日には日常要求に絡んだ闘争を展開し、また、政府が通過をねらった26日には、第15次統一行動に応じて全学集会を開き、さらに県民会議の決起大会に参加し、政府の企図を断念させる役割を果した。なお、学内の組織化、とくに教官を重視して、14日に東北大安保条約研究会に申し入れを行なうなど働きかけている。
政府は、アイゼンハワー訪日の6月19日から逆算した新安保条約自然成立のタイム・リミットである5月19日夜、議会制民主主義を破壊するクーデターのような暴挙で、国会の50日延長を単独採決し、20日未明に衆議院本会議で安保条約の批准を単独強行採決した。この暴挙は全国民的規模の憤激をよび起し、連絡会議は直ちにニュースを出し、抗議署名の実施を決定し、県民会議の集会に参加した。また、この時から民主主義擁護の課題がひときわ高く掲げられ、安保反対に固まっていない人々も民主主義の観点から結集しはじめ、教授層も漸次行動に参加し、全学的規模での共同の闘いが開始された。
6月4日、安保闘争で初のゼネストが行われた。この日学内では、職組を中心に院生とともに、工・農・理学部・金・農研で午前11時から職場集会が開かれた。また、教授団の初のデモが行われた。教授層の社会的影響力を重視して反対声明を出すことと組織化を働きかけてきたが、文系学部で声明が出され、理工系、教養部でも準備が進み、そしてこの日、150名の初のデモとなった。この日以降、全学的な民主主義擁護、安保不承認、国会解散の闘いと、学内の組織固めが課題となっていった。
第二波ゼネストの15日には、連絡会議のデモと併行して、教官主催の民主主義に関する講演会が開かれた。そして同夜の全学連に対する弾圧は、16日に学生の大抗議集会、デモをまきおこし、17日には、教官団が、学生弾圧に関する茅声明を学長に要求する教官全学集会を開いた。ついで、全学抗議集会を開いてデモに移り、この時からようやく、連絡会議の主導下に全学一本の統一行動を展開し得るようになった。
19日の自然成立を迎え、職組は6名の上京団を派遣した。22日のゼネストには部局別職場集会がもたれ、民主主義を守る助手会(民助会、21日結成)、同院生研究生の会(民院研)、教官有志その他あらゆる団体を共闘に参加させた。この結果、7学部6研究所で集会がもたれ、ついで中央講堂で「民主主義を守る全学集会」を開き、800名が参加して安保闘争の頂点をなした。
このように、空前のエネルギーを発揮した安保闘争は、「安保体制を揺るがした空前の闘い」であると同時に、「学内民主化の大きな一歩」であった。茅声明の支持、文相への抗議が、全学集会で二度決議されるなど全学一体の意志統一が生まれ、階層別組織の共闘も一歩前進するなど、「教授から学生まで含めた大学の自治これを大学の民主主義と呼ぼう」の第一歩をふみだした。
そして、「民主主義を守る東北大学学者研究者の会」結成の動き、時事問題懇談会(教官)、民助会、民院研、全学会議(学生)連合会の五者共闘会議結成の動きなど、共闘組織結成の動きのなかから、7月初めに、連合会、民助会、民院研、全学会議の「民主主義を守る四者会議」が結成された。そこで今後の運動方針として、(1)市民のための講演会、(2)講師団の編成、(3)特に農村を対象とした啓蒙活動、(4)農村の調査、(5)学生の帰郷運動、以上五点を決定した。
連合会は安保闘争と同時に、提訴闘争に努力を傾注した。前年12月の提訴は事務局に反響をおこし、2年ぶりに大学当局との交渉が再開され、学内で解決がつけば提訴は不要として、相対的重点を学内交渉においた。交渉は、格付基準で学卒後の経験年数が焦点となったが、4月末に、人事院給与局の「ケースバイケースで審査」の方針が当局から示され、再び学内交渉による解決の途は失われた。しかし、当局側のこの問題の理解と支持には成功した。
これとともに人事院公平局審査課との交渉が行われ、書類形式の問題が論点となった。給与法の手続き細則をめぐって衝突したが、この中で、人事院は、「零回答はしない、前例となる基準を出す」と、裁定内容を予想させて行政措置要求への切換えを勧告してきた。そこで、「提訴の趣旨が生き相当の成果が見通されるならば」と、切換えの準備を始め、行政措置要求の裁定の見通しを人事院への質問状で確認し、さらに大学当局、文部省、人事院の動向を検討したうえ、3月29日に切換えを決定した。そして、5月13日付で行政措置要求書を人事院へ提出した。
7月11~16日の間、人事院から4名の調査官が事実調査のため来学し、連合会と二度の会見を行った。その中で、「裁定結果を勧告として公表せず、斡旋という形をとりたい」と言明したことに対し、組合側の意見も取入れて斡旋案を作ること、組合が拒否することもありうるなどを主張し、調査と会見を終えた。こうして、粘り強い、長期の提訴闘争もようやく最終段階に入った。
多くの労組は、賃金闘争を安保闘争と結びつけて有利に進めた。連合会は、一律3000円アップ等の国公地公共闘会議の統一要求を掲げ、安保、提訴闘争とともに春闘に入った。共闘会議に呼応した活動とともに、給与対策小委員会を設置して賃金実態調査、職種別要求調査を行い、さらに各単組に賃金討論集会の開催を呼びかけた。このように、給対委の調査活動に基づいた討論の組織に着手した。この他では、公務員住宅の適正配分、合理的建設、運営を求めて住宅小委員会を結成したこと、原水禁大会の国民平和大行進への参加などがあった。
安保闘争は、学内の階層別の結集による民主的諸組織の結成と共闘など、学内民主勢力の前進を生みだし、連合会も著しく組織を強化した。弱体単組、未組織部局への集中的オルグ、登録人員の増加に取組み、7月5日に科研職組の結成と連合会加入の決議があり(102名中92名加入、登録人員80名)、法文系でも安保闘争中の組織化を表明するなど、未組織部局の組織化が一定前進し、登録人員の増加も実現した。
また、組織一本化について検討すべく設置された組織小委員会は、一本化が望ましいという結論を出した。しかし、役員の任期内交代があいつぎ、その補充に苦しむ事態が続き、業務分担をはかって小委員会制度をとった。小委員会がその機能を一定化し、役員の負担軽減、活動強化の面で今後に示唆を与えるものとなった。
安保、提訴闘争が最終盤を迎えた7月29日に、第21回定期総会を開いた。安保闘争については、「われわれも最終的に負けているわけではない。勝っているという総括も極めて多いが、問題を日本の民主主義確立という観点ではなく、安保条約反対に全力を注ぎ込んだ労働者としては、極めて不安な気持ちをもっている」、池田新政権については、岸亜流だがアメとムチを巧妙に使い分けていると捉えた。
この情勢下では、安保体制に対する粘り強い闘いと、賃上げ、税金、争議権など、生活向上と権利の強化が要請され、大学管理機関の設置、大学再編成などの大学への直接的反動攻勢に対しては、教育・研究の自由と大学自治の擁護のため、安保体制下の大学民主主義の確立と、教育・研究発展のための具体的要求の必要性を指摘している。
当面の運動として、安保では、安保体制打破を最終目標として国民戦線への結集と学習活動、賃上げでは、組合員要求に基づく俸給表の作成とその実現をめざす活動、生活擁護では、退職勧奨反対、住宅院会への組合代表参加、全有資格者の任官要求、常勤・臨時職員の定員化、教育・研究の擁護では、「教授会の自治だけではなく、教授から学生まで含めた民主的自治」の実現、組織・財政の強化等を掲げている。
なお、運動上の留意点として、(1)闘いの意義と目標の明確化と、戦いの各段階での目標を速やかに示すこと、(2)組合員の活動意欲の創出、(3)教育宣伝活動を重視し、組合員の理論武装の強化、(4)組織を下部まで固めること、(5)大学の特殊任務の遂行と同時に、労働者としての連帯感を失わないこと、(6)全活動を大学の民主主義の確立に直結させること、以上6点が示されている。
第21期の活動では、安保、提訴、賃金問題が中心であったが、なかでも最終盤を迎えた提訴闘争に、「異常な程の努力」を注いだ。
一段落のついた安保闘争では、連絡会議編『安保改定阻止闘争の総括』を通して、闘いの一定の総括と今後の展望を学習する活動と、安保闘争に絡む処分に反対する弾圧反対闘争が行われた。弾圧反対県民集会(8.27)、裁判所・検察庁への抗議行動、公判闘争、新安保反対、浅沼暗殺抗議全国統一行動(10.20)への参加、四者協主催の新明教授の講演会「浅沼事件の感想」(11.14)の開催などの活動があったが、あまり盛り上りはなかった。また、総選挙には、「革新政党の勝利はわれわれの勝利」として、カンパ、候補者へのアンケートなどを通じ、革新系候補の躍進を援助した。
7月の提訴以来、まったく音沙汰がないため、9.9学長交渉で探ったが判明せず、9.11提訴小委は、中央情勢把握のため2名の上京交渉団の派遣を決定した。9.16-17人事院交渉では、書類点検は終り年内に結論を出す、格付の一定の基準は設けず、斡旋の形をとりたい、という回答を得、さらに9.26-27人事院交渉も行った。
ここで再度提訴小委を開き(10.4)、要望書の署名運動と、大学当局に理解と努力を求めるための学内交渉の強化を決定し、学長、局長、とくに庶務部長交渉を精力的に展開した。そして、要望書をもって11.8人事院交渉に臨んだが、人事院は、文部省に案はだしたが、内容は明確にせず、「例えば或職場に10人位の人が居るとすれば、8名位迄は行(一)になり得たとしても、二~三名残ることは止むを得ない」(八割説)など、職務内容を問わず職階制の維持強化をはかる考え方を示した。
このように大詰を迎えたが、文部省は責任回避をし、大学当局は人事院の代弁的態度をとるなかで、「我々の力で有利な道を開いて行く以外に道がない」として、11月11日に提訴者全員集会を開き、提訴者1人200円カンパによる大量上京交渉、学内交渉の強化、職階制打破と関連して全員行(一)への強調など、11項目の決定を行った。
18日には、代表8名が交渉方針を決定した。上京者は提訴者代表であることを確認させること、責任ある回答の要求、八割説は真実か、斡旋案の期日の明確化を確認している。21日の交渉で人事院は、抽象的内容に終始したが、八割説は単なる仮説であること、実際の運用は文部省に幅をもたせること、年内に結論を出すこと、最終斡旋案作成に組合側を参加させること等を回答した。
なお、文部省交渉では、是正のさいに行(一)へ変更できるような案を人事院に出すことを約束させている。こののち、連合会、単組による学局長、部局長交渉、部局毎の提訴者全員集会開催などを繰り返し、提訴問題の認識の深化をはかった。しかし、給与法改正で作業の遅れた人事院は、約束に反して年内に結論を出さなかった。
なお、中央、学内交渉とともに、中央組織への働きかけを強めた。9月26、27日の大学部総会では、行(二)撤廃運動の一環として提起され、全国的闘争への兆が現れ、10月16日の東北ブロック職種別懇談会、11月19日の東北ブロック会議、12月19日の全国職種別懇談会などで提訴問題を全国にアピールした。この結果、他大学でも非常な関心を示し始め提訴闘争が全国的な行(二)撤廃、職階制打破の闘いの足掛りを提供する重要な役割を果し始めた。
賃上げ問題では、8月に出た上厚下薄、職階制強化の人事院勧告に反対し、一律3000円アップを掲げて臨時国会へ陳情活動を行った。なお、給与小委がアンケートの集計、分析にあった。この他では、教務職院の格上げ、身分保障の問題を取上げた。
60年7月に成立した池田内閣は、「低姿勢」で政治に臨むことによって岸内閣同様の目的を追求した。独占資本のための高度経済成長政策は国民には「所得倍増」政策として示され、労働者に生活改善の幻想をばらまいた。しかし、他方で、国民の大衆的政治行動の封殺のため右翼テロを利用した政治的暴力行為防止法案(政暴法)の国会上程、安保反対勢力の統一の破壊と、反響親米の潮流の育成をはかった。労働者と人民とのたたかいは、勤評・警職法・安保を経て、前進し、新しい段階に入った。公労協の賃上げ、スト権奪還をかかげたスト宣言、労働者の組織化の飛躍的前進、総評参加の主要単産から世界労組大会に代表を派遣したことなどに示された。しかし、安保改定を許したことは、知識人・学生・労働運動の指導者の一部に動揺をひきおこした。「既成組織」への反発、社会党の「構造改革論」などの改良主義的方針、総評運動方針での経済闘争の強調と国際自由労連との提携強化の強調に示された。全体としての大きな前進と一部の右傾化、反共親米的潮流の強まりなど、「高度経済成長」政策の進行のなかで、複雑な情勢をむかえた。
結論を1961年に持ち越した提訴闘争はいよいよ大詰をむかえ、最後の努力を注いだ。まず、結論を早急に出させるため、1月には、16日に人事院仙台地方事務所、19日に庶務部長、2月には、2日に人事院、3月には2日に大学部と共に人事院、15日に地方事務所、17日に人事院と交渉を繰り返し、さらに、促進要求書の提出、葉書戦術を加えた。この中で、たんに一大学にとどまらない大問題化し、書く大学の調査などで結論が遅れて年度内は困難となったこと、昭和32年(1957年)以後の採用者は各大学で処理するので取上げないこと等が判明した。
ようやく4月11日に実質的斡旋案として文部省通達が送付され、13日の庶務部長交渉で呈示された。その内容は、研究室関係は研究補助的な仕事に従事ということで実業高校卒以上を基準にして行(一)とする。工場関係は「ものをつくる」技能的仕事なので行(二)だが、高度な職務の者のみ行(一)とする。というもので、工場系を頭から行(二)にきめつけた。
そこで、19日には、文部省・人事院、21、28日には庶務部長交渉で、通達の拡大解釈を要求し、本学から提訴者全員を含む200名の行(一)への移動要求申請を提出させた。5月6日に提訴者全員集会を開き、予想される斡旋案への対処を討議し、最終的には全員集会で態度を決定すること、場合によっては一括返上も辞さない強腰で臨むこと等を決定した。そして、斡旋内容に期待と不安が交り合うなかで、人事院係官の来仙を迎えた。
26日に組合執行部と提訴者単組代表に対して、結論の説明があった。研究室関係は、提訴者36名(退職者、32年以後採用者計7名を除く提訴者33名全員と、非提訴者等3名)、工場関係は、提訴者数112名のうち移動者36名(非提訴者3名を含む)、農場関係8名で工場系が研究室に比べて悪い内容であった。
運動の中心となった工場系から強い不満が出、27日午前には執行部と単組代表、午後には提訴者全員集会(70人参加)、31日には執行部、単組代表に説明を行わせた。人事院側は、高姿勢、低姿勢おりまぜて「何がなんでも形として提訴を取下げてくれ」という態度を示した。組合側は、行(一)(二)の境界線があいまいで何ら解決になっていないとつっぱねたが、慎重審議の上、別途回答するとして交渉を打ち切った。
執行部は、拒否か提訴取下げかの選択にせまられ、6月10日に提訴者全員集会を開き、条件付取下げ、条件は執行部に付託という案が反対1、保留2で可決された。そこで執行部は、引続き行政措置要求を出しても早急解決は望めず、行(二)に残された人を苦情処理要求で部分的でも是正させる方向も重要であると判断し、当面苦情処理要求で進み、時期をみて再び行政措置に切替えることも考慮という結論を出した。これに従って、6月21日付で、(1)今後の補正改善を検討すること、(2)移動できなかったが移動者と同等以上の実績ある者は、早急に移動措置が講ぜられること、(3)苦情申立を行う予定なので、申立の趣旨にそって慎重に検討すること、の三点の要望を付して、取下げ書を発送した。
こうして、4年間にわたり、とくに前年8月依以来の11ヶ月に、学長交渉4回、局長交渉三回、庶務部長交渉13回、上京交渉14回、提訴小委13回、全員集会4回と最後の努力を注いだ闘争も一段落ついた。そして、今後の展望として、人事院、文部省だけでなく国会等に働きかけるとともに、全国大学の問題として解決して行かねばならないこと、現行の職階制を打破しなければ全面解決は不可能なので、行(一)行(二)俸給表の撤廃闘争をあくまでも進めることなどを掲げた。
この時期の生活と権利を守る課題では、賃上げ、教務職員問題、常勤(三ヶ月更新)の定員化、諸手当、退職勧奨反対、ILO87号批准と国内法改悪反対、政暴法反対の闘いがあった。賃上げでは、公務員共闘の賃金調査の実施、新賃金草案の討議があり、教務職員の超勤費支給要求は、連合会から出されて全国的要求となり、36年度からの支給を実現した。「定員化防止」を閣議決定したため、定員化は困難となり、また定員外職員予算の減額もあって、定員外職員数の現状維持がやっとであった。
池田内閣は、ILO87号条約批准をさぼりながら、政暴法を突如上程した。そして6月2日に衆院法務案、3日に本会議で可決したが、反対運動も急速に高まった。連合会は、唯一の資料であった「アカハタ」の解説書で情宣に努め、2日には、県民会議の決起大会に参加、6日には、学内4団体主催で全学討論集会を開くとともに、2名を上京させた。これらの猛反対の結果、継続審議となったが、学内では反応がにぶく、特に研究者の行動が弱かった。しかし、反対運動は秋に継続させて行った。
教育・思想・文化の課題では、大学教育と臨時工業教員養成課程設置問題があった。1月19日~2月2日の日教組第十次教育研究集会には、初めて「大学教育分科会」が開かれ、安保闘争と大学の自治、前年5月に文相が中教審に諮問した「大学教育の改善について」が主要な論点となった。連合会は研究発表を予定し、研究の機構・体制・学内民主化について学内討議を行ったが、提訴問題等に忙殺され発表を取り止め、1名を集会に派遣するにとどまった。しかし、学内教研に取組み、教研特別委を設置し、単組毎の討議を2月に実施している。
高度経済成長の要請する下級技術者の充足のため、工業高校の増設をはかり、その教員確保のため、臨時工業教員養成所が東北大を始めとして九大学におしつけられた。前年8月に設置に関する諮問があり、工学部としては望ましくないとの態度を学長に示したが、来年にはいり、文部省の強い要請で学長は設置を決意し、設置委員会を開設準備会に改組した。これに対し、(1)修業年限3ヵ年卒業生に教員免許を与えることは、現行教育体制崩壊につながる。(2)教官数が普通の半分しかなく、工学部教職員の過重労働につながる。等から反対し、3月には設置予定九大学職員組合連名の反対声明が出され、国会陳情等が行われた。結局、評議会が設置を決定し、実地段階に入ったので、連合会としては非協力の態度を打ち出して対抗した。
提訴闘争に一応の決着をつけて、21期の活動を終え、7月19日に第22回定期総会を開いた。情勢については、次のように報告している。池田内閣の一枚看板である経済成長、所得倍増計画は、安保体制下における国民支配の方向として捉えなければならず、その中で、経済成長のための独占の科学技術政策は、大学の研究、教育のゆがんだ発展をもたらし、所得倍増計画は、名目的上昇にすぎず、大学教職員賃金は民間との格差を拡大し、物価上昇により生活を大きく圧迫し、これらに反対する運動を、政防法改悪で弾圧強化しようとしている。
こうした情勢下での運動は、科学の全面的発展をはかるため、予算、人員、民主化の要求、一律5000円アップを含む大幅賃上げの要求、ILOの87号条約の即時批准、弾圧政策との闘いで、権利の擁護をはかること、等々が要請されると主張した。また、組織上の問題では、連合会単組間のズレ、とくに連合会執行部と組合員のズレが根本的問題だが、これは部局、学科、講座等の現実の職場の封鎖性による「大学組織にあり勝ちな企業別意識」が大きな欠陥であり、これを克服するためには、職種別の要求をとりあげ、全学的に組織する運動が重要だと指摘している。
安保・提訴闘争の如き活動の核になるものがなくなり、地道な活動に取組んだ。その中で、賃上げ、政暴法、苦情処理問題が主なものであった。8月に、平均7%余の賃上げを含む人事院勧告が出たが、これに対して一律5000円アップを掲げて闘い、9月からの統一行動への参加、賃金討論集会の開催などの活動を展開したが、政府は勧告すら完全に実施せずに終わった。
9月からの臨時国会の重要案件の一つである政暴法に対し、61年3月に再発足した「安保反対・平和と民主主義を守る国民会議」を中心に安保闘争の再現による阻止を試みた。9月29日には、安保以後停滞していた学内共闘が復活され、「政暴法対策四者連絡会議」(連合会、全学助手会、民院研、全学会議)が結成され、10月26日には、上京団2名の派遣、27日には全学集会を開くなどの活動を行い、立法阻止に貢献した。
提訴闘争の延長上の苦情処理問題に取組み、苦情処理小委を設置した。66名の苦情処理申請を、庶務部長の反対、学長の意見書の添付の失敗にもかかわらず、部局長等の意見書を付し、12月7日に人事院仙台地方事務所へ提出し、東京へ送付された。他方、学内の認識を深めるため、各単組を通じて、学部長評議員への働きかけを行った。
この他では、研究教育を守る課題では、中教審の中間答申(「大学の目的と性格」)に対し、「中教審答申を研究する会」(9.21)を開き、また、36年度の教研集会への取組みがあった。組織強化の課題では、9月14日~16日には学内で、9月30~10月1日には東北ブロックの職種別懇談会が開かれ、山形で開かれたブロック職懇は、一泊二日という初の試みであり、参加者も80数名で盛大で、その成果を、連合会ニュースで紹介している。なお、11月11日の県国公共闘会議の結成大会に参加した。また年末闘争では、年末年始宿日直手当、臨時職員年末手当問題をかかげ、庶務部長交渉などで取組んだ程度であった。