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第五編 成長(1967年~70年)(昭和42年~昭和45年)

 アメリカのベトナム侵略戦争が狂気のエスカレートを示すにともない、反戦平和運動はアメリカ国内をはじめ、全世界に大きな高まりを示した。国内においても、ベトナム特需をもテコにした無謀な高度成長が推進され、高物価・公害など国民の怒りと不満が広範に広がった。

 政府自民党は、こうした事態をかえりみることなく総定員法などによるしめつけ、「明治100年」などによる思想動員、更には、一部極左集団の挑発と妄動を最大限利用するなど、高圧的姿勢をますますつよめていった。

 しかし、広範な国民の怒りは、美濃部革新都政を誕生させるなど、革新の結集へと動きはじめた。労働運動は、反戦・賃上げを軸に全国的高揚を示し、日教組を含む公務員共闘も65年以降「実力闘争」で全国闘争に合流、「人勧の完全実施」に決着をつけていった。

 1967年5月、単一化を決定した東北大職組は、労働運動の全国的高揚の波にのり、又全国的学園紛争で鍛えられ、様々な経験と教訓を蓄積しながら、急速な「成長」をとげていった。

第十五章 連合会から単一組合への移行(1967年)

I 単一化決定総会

“交渉力を強めよう” “弱い仲間に団結の力を”

 前年(1966年)7月の定期総会において「単一化する方向での討議をおこなう」ことが修正決定されて以来、組合単一化にむけて精力的なとりくみが展開された。連合会執行部と組織専門委員会は8・9月に作成作業を進め、9月後半には、単一組合規約案を全組合員に配布し討議に付した。さらに、『こんなことが起こっているのをご存知ですか─交渉力を強めよう』、『“組合員×2=200名、では組合員は何名でしょうか?” “100名です” “残念でした1,500名です”』、『組合をほしい人に組合を─弱い仲間に団結の力を─』『連合会の委員長は30票で当選─専従役員がほしい─』など、「単一化シリーズ」の情宣を発行し、単一化の必要性を訴えた。

全単組で単一化参加を批准

 しかし、10月1日に開かれた臨時総会では、各単組の単一化の討議があまり進行しない状況を考慮し、「来年7月から単一組合とする」ことを決議し、各単組での批准を含む移行過程を確認した。以来、連合会執行委員会は単一組合設立準備委員会を兼務して活動を開始、翌年3月には諸規定案の作成をはじめ、すべての準備を終了し、全組合員、討議を要請した。

 更に4・5月を組織強化期間とし、すでに批准されている7単組(農研・図書館・農学部・金研・理学部・科研・医学部)以外の3単組(工学部・病院・川渡)に全力を傾注し、5月の臨時総会までには全単組が足並を揃えて、総会ないしは全員投票により、単一化に参加することを決定した。

満場一致で単一化組合¥9T$r7hDj

 職組連合会は1967年5月27日、法文9番教室において臨時総会を開催した。代議員定数56名中41名が出席しておこなわれた総会は、直接秘密投票をおこない、多年の念願であった単一組合結成を全員一致で決定した。ここに、18年の歩みを経た東北大職員組合連合会は改組され、東北大学職員組合として発足することになった。発足時の組合組織人員は10単組1,434名(工・385、理・238、農・140、医・65、農研・39、金研・251、科・103、図・38、病・120、川渡・55)であった。

7項目の「移行措置」を確認

 同時に総会は次の諸点の「移行措置」と「確認事項」を承認した。

  1. 職員組合連合会の資産、債権、債務などは、すべて単一の組合が引継ぐものとする。
  2. 来る7月の第一回定期大会までは、単一組合の執行委員会の役員は、暫定的に連合会の役員がこれを務め、組合業務をおこないつつ移行措置の遂行にあたる。
  3. 支部となるところは支部規約及び細則の作成作業を開始し、遅くとも9月までには支部として必要な一切の作業を終了する。
  4. 単一組合の新役員及び会計監査委員は、第一回定期大会までに選出する。
  5. 専従役員は7月からおくものとする。

=確認事項=

  1. 組合加入金及び組合費の徴収規準は第一回定期大会で決定する。
  2. 第一回定期大会をめざして未組織部局(法・文・経・教・選研・長町分院・炊婦等)の未加入職員への組合への加入および未加入組合(教養部・抗研)の単一組合への参加を積極的に呼びかける。

委員長候補対立の第1回役員選挙

 5月の臨時総会のあと移行措置のもとに執行部は、病院・炊婦・未組織を中心に組合員拡大のよびかけをおこない第一回定期大会の準備をすすめた。6月に入り、選挙管理委員会が中心となって新役員の選挙にとりくみ、7月3日投票、5日開票で新執行部が選挙された。単一化第一回のこの選挙は、委員長候補が二名対立でおこなわれ、盛り上りを示した。

II 諸要求の前進

非常勤、6ヶ月から1ヵ年更新へ

 単一化への盛り上りの中で、諸要求実現のとりくみにも前進がみられた。

 前年(1966年)に図書館からはじまった非常勤職員の待遇改善を要求する署名は全額に広がり、事務局長交渉も再三行われた。全国大学で約1万人(設備増に伴う不足8千名、欠員補充による2千名─文部省調べ)にも及び、全国問題化している中での署名行動は、日教組等の文部省交渉を強化する力となり、ついに42年(1967年)3月、文部省は、非常勤の6ヶ月更新を1ヵ年更新とすることを決定した。このため、有給休暇、ボーナス、退職金等が従来より改善されることとなった。

病院、超勤費5割カットをはねかえす

 特別会計法による独立採算方式が実施されて以来、大学病院では、新病棟設置、高額ベッドの増加がされ、又、中央化が実施された。これらは、あらゆる職場での人員不足、労働強化の犠牲のもとに行われ、看護婦の夜勤、給食部の超勤等は全国平均を上まわる上京であった。新病棟も掃除用具入れなし、更衣室なし等、事務当局の一方的なものであった。

 そうした下で、前年9月に、当局は超勤費の5割カットを強行してきたが、組合は、反対署名、職場討議、捺印拒否のたたかいで7割支給にすることができた。この看護婦を中心とするたたかいは、給食部など現場労働者にもひろがり、又、無給医局員も生活と権利、研究条件保証を要求してたちあがりはじめた。

 しかし、当局は、人員の配置転換、勤務時間割、請負制の実施等、合理化を一層強めていった。

掲示規制の動きに抗議

 この超勤費について、農学部、工学部では事務、教室系との配分を適正におこなうべきであるという要求で、職場討議、部局長交渉をおこない、超勤費実働分支給を要求するたたかいの前進がみられた。

 更に工学部職組は、住宅アンケートをおこない、連合会も、公務員宿舎の現状、従来の入所規準等についてのとりくみをはじめた。

 又、前年12月に金研で「所内掲示に関する内規(案)」が教授会に出され、6月には病院当局が「掲示板取扱内規」を組合にわたし一方的に実施しようとするなど、掲示の規制の動きが強まった。組合は、活動に対する著しい干渉、侵害を含むものとして強く抗議した。金研では、組合、教授会、助手会で討議され、保留となった。

保育所建設着工へ

 前年3月に全学の支援で保育所設置が確約されたが、その後、事務当局が、改悪国公法をたてにした「予備交渉」や、つくる会との交渉拒否等により遅滞し、9月開所の予定は実現できなかった。当局の高圧的な態度につくる会は若干譲歩し、職組を窓口として交渉にあたった結果、この年5月に設計図が決定、8月20日開所をめざして7月着工という具体化をみるに至った。6年越しの粘り強いたたかいの大きな成果であった。

III 概算要求制度をめぐるたたかい

必死に抵抗する文部官僚

 宮学大・40年問題の反省にたって、前年の12月に「東北大学管理運営検討委員会」が「東北大学概算要求及び共通経費規定(案)」を評議会にするや、文部省の意を受けた事務当局は、この規定の成立を何とか阻止しようと、「事務長等会議の見解」や「石井庶務課長の書簡」を出してきた。その内容は大学の自治に対する無理解と学問研究に対する国家統制の考えが一貫したものであった。

全学的運動に前進

 組合は、東北大学平和と民主教育を守る連絡会議とともに、この「規定(案)」が大学の民主化、研究・教育を発展させる上で寄与する内容を含むものとして、基本的に支持した。

 連絡会議は2月に「概算要求、編成問題に関する我々の見解」を発表して態度を表明。さらにこの問題をめぐる動きを重視し、5月20日には連絡会議の総会を開くと共に、「諸資料集」(組合と連絡会議)「概算要求編成問題に関する討議資料」(連絡会議)を発行し、教官・職員・院生・学生・生協で全学的な討議をすすめながら、諸要求に根ざした運動をすすめた。

6.20連絡会議全学集会

 連絡会議は、こうした運動を結集して6月20日に、次のスローガンをかかげて全学集会を開催した。

  1. ベトナム侵略反対・原潜寄港阻止
  2. 小選挙区制反対、憲法改悪阻止
  3. 教育予算増、定員増
  4. 保育所の人件費は当局で負担せよ
  5. 政府への予算を全学の総意で行おう
  6. 事務長等会議の見解を粉砕しよう
  7. 米軍資金援助を拒否しよう
  8. 学術振興会法案反対

 日教組大学部も大学をめぐる二つの道のたたかいであり、全国的課題として重視した。

IV あらたな出発

第1回定期大会

 戦後20年にわたる大学の組合運動の伝統をうけつぎ、真にたたかう組合をめざして単一化された組合は、1967年7月15日、金研講堂において、第一回定期大会を開催した。大会は、連合体としての体質を一刻も早く改善し、弱点を克服しつつ前進しようという意気にあふれた内容であった。

急速にひろがる侵略反対闘争

 すでに米軍の参加数50数万、直接戦費219億ドルに達するという膨大な戦力をベトナム侵略に投入しながら、尚も窮地にたつアメリカは、ついに、ベトナム人民の皆殺し作戦にふみきっていた。この狂気の作戦のエスカレートにたいして国際世論は大きな高まりを示した。英国のラッセル卿のベトナム戦争裁判の提唱、アメリカでの徴兵拒否、さらに1965年に日本からはじまった10.21国際反戦デーの三大陸人民連帯機構よびかけへの発展など、世界各地で急速に、ベトナム侵略反対の闘いがひろがった。

みのべ革新都政の誕生

 自民党佐藤内閣は、口では「平和」を唱えながら、軍需品の生産、供給、L・S・Tなどによる輸送協力、野戦病院の国内設置、さらに2兆3千億円にのぼる三次防策定と、安保条約を理由にますますベトナム侵略への加担を強めていった。

 同時に「期待される人間像」の発表、「建国記念日」の強行制定、明治100年の思想動員、さらには「自衛隊適格者名簿」の作成など、一連の軍国主義的思想動員が強化された。

 同年(1967年)1月の総選挙、4月の統一地方選で自民党は後退し、特に首都東京において、社・共統一のみのべ知事が誕生したことは自民党に深刻な打撃を与え、反動支配の維持とたて直しのまきかえしを強めていた。

国大協自主規制路線

 こうした、政府の再編成合理化、軍国主義化政策は当然に大学においてもあらわれていた。

 「大管法」のなし崩し実施に呼応した「広大教の自主規制路線」、4億円近い米軍資金導入、大学の現職自衛官入学、各大学事務局の権限の拡大など、大学自治の抑圧と官僚統制の動きが次々に表面化した。

組織強化、8つの課題

 第一回大会は、以上のような内外情勢の把握にたって、大学における各階層の状況を、(1)教授・助教授層、(2)助手・教務員層、(3)下級事務職員層、(4)現場労働職員層、(5)青年婦人層、(6)臨時職員、(7)大学病院、に分けて分析し課題を明らかにした。更に連合体の体質改善と組織強化のために、一年間の組織強化の重点として、(1)組合規約、諸規定と支部規約の決定、(2)専従役員、書記の設置、(3)青年部・婦人部の確立、(4)大学部への結集(登録率増)の努力、(5)最低本俸1%以上の組合費の確立、(6)未組織部局(文科系、選研、長分、炊婦)の組合拡大と、未加入組合(教養部、抗研)の単一組合参加、(7)支部間の組織力、闘争力の不均衡の克服、(8)日教組内における大学教組の要求実現機能の強化、を決定し、とりくみを開始した。

第十六章 闘う力量の蓄積(1967年~68年)単一化1年目のたたかい

I 賃金闘争の重視

10.26早朝1時間実力行使

 連合体から単一化を決定して、あらたな出発をした職員連合は、大幅賃金引上げの課題を労働組合の重要な闘いとして重視し、人事院勧告体制打破をめざすたたかいを開始した。組合は第一回定期大会終了後、7・8月にはブロック職懇で賃金闘争の討議を広め、8月には人勧前の中央動員へむけて賃金署名にとりくみ(1,395名)二名の代表を派遣した。更に、9月9日の第二回中央委員会総会で職場討議原案を決定し、9月30日の臨時大会で、10・26の早朝1時間の実力行使(休暇戦術)を中心とする賃闘方針を決定した。

過半数支持を得られなかった批准

 10.22、10.21の二年間の賃金闘争の土台をふまえてとりくまれた10.26闘争に対して、組合は、「一.給与改訂の実施期日を5月1日にさせる。一.地方公務員の給与改訂財源を国で措置させる。一.定員外職員の定員化。一.教育・研究予算の増額」を統一要求として掲げた。しかし、臨時大会決定をふまえてとりくまれた批准投票の結果は、83%の投票率・対組合員比47.9%、対構成員比51.2%の批准率で、組合員の過半数の支持を得ることができなかった。

29分くい込み早朝集会の成功

 批准不成立後、組合は、更にとりくみを強めリボン闘争、病院支部での一週間ビラ入れ、教官層へのアンケートなどをおこなった。そして、集会参加決意書の59.1%集約をふまえて第4回中央委員会は、午前8時から29分くいこみの早朝集会を決定した。

 この決定後、大学の組合がかつて経験したことのない、当局の干渉・妨害が急速に強められた。組合は、個別的にあるいは学長・局長交渉で不当干渉に抗議しつつ、配車など実務活動を組織全体で展開し、前年上まわる650名の参加で総長集会を成功させた。

実施時期を1ヶ月繰り上げさす!

 10.26早朝要求貫徹集会は、都市交通、全水道、政労協、日高教の全国的実力行使、日教組では29の都道府県教組、大学では23大学の実力行使というたたかいと結合して行われた。この全公務員の統一闘争は、政府へ実施期日を一ヶ月繰り上げさせ人勧体制打破の展望をきりひらく闘いへの土台となった。又、組合内においても、組合員相互の信頼が高まり、団結の力に対する確信を深めることができたことを評価している。しかし、反面、批准が48%にとどまり、過半数の支持を得られなかった点として、情宣活動を含めた指導上の欠陥、日常組合活動の不足、職場を基礎にしたたたかいの弱さなどを深く反省している。

12.15闘争

 10.26闘争の成果と反省をふまえながら43年度予算案をめぐる臨時国家へむけて12.15闘争が組織された。財政硬直化を理由にした公務員労働者の低賃金・合理化政策のあらたな攻撃に対する組合員の憤りが結集される中でとりくまれた批准投票は、構成員の60%の賛成(賛成率72%)を得た。当日は、全学4ヵ所(片平・科研・病院医学部・川渡)で一斉に昼休みから勤務時間にくいこむ集会がもたれ、470名が参加。とくに病院・医学部地区では50名の参加ではじめての昼休み集会を成功させ、統一と団結への確信を深めるとりくみとなった。

837枚の賃金アンケート

 人勧体制打破を展望した賃金闘争を系統的持続的にすすめる上で貴重な経験をのこした10.26、12.15闘争は翌春闘へひきつがれた。1月27日には中央委員会を開催して春闘方針(案)を決定。国公の賃金アンケートは837枚が集約され、その結果にもとづく職場討議のため4.19一斉職場集会を15ヶ所でおこなうなど、要求解決への力をしだいにひろげていった。

II 勤勉手当差別支給反対闘争

3月手当差別支給の強行

 人事院が勤勉手当を差別支給するよう各省庁を指導したことにもとづき、文部省は各大学学長宛親展通知を出していることが2月2日の大学部総会で明らかにされた。組合は3月1日以降、当局会見の申し入れをおこない、3月勤勉手当に対して、従来通りの支給を要求してたち上がった。しかし当局は文部省の方針を強行するため、事務レベル以上の会見を拒否しつづけ、3月15日には差別支給を強行した。

900名以上が受取り拒否

 差別支給を強行する当局に対するはげしい怒りが結集される中で、中央委員会は、受け取り拒否の性格と持続性について論議をつくし、15日の支給日には900名以上の人々が拒否闘争で抗議に立ちあがった。当局は緊急事態に対処するため学長の支持により17日に事務会議を開き、「差別された70%のものに対しては、手当支給の平均率(0.015%)を限度として、43年度超勤手当として支給する。この措置は今回限りとする」と回答、6月手当については組合と合意の上で決めることを確約した。組合は回答を、従来通り支給の基本的な考えを認めたものであることを確認して、18日、拒否闘争を終結させた。

6月手当差別支給 ─初の1時間休暇闘争─

 しかし、6月手当の差別支給は、全国的に文部省の圧力と干渉がこれまでになくつよめられるなかでおこなわれた。そのため、たたかいは複雑で困難なものになったが、1ヵ月にわたってねばり強く続けられた。

 組合は、6.5要求貫徹集会を始めての1時間一斉休暇闘争として組織、700名近い組合員を結集して成功させ、正当な権利である休暇権を具体的に行使した。大学病院では昼休みの超勤拒否闘争をおこない、更に要求貫徹の署名は2日間で1,500名をこえる盛り上げを示し、学長に提出した。

受取り拒否1,200名に

 6月15日の差別支給強行に対して1,200名をこえる教職員が手当の受け取り拒否をおこなった。これは、学長にも大きな動揺を与え、12月手当については再検討することを認めさせた。

 全国的にも九大、新大、北教大、鹿大、北大などで一律支給をかちとるなど、大学組合の力を大きく前進させるたたかいとなってうけつがれていった。

III 片平保育所の開設

物価値上げに抗して

 この間、諸要求実現の闘いも活発化していった。

 前年物価上昇率44%以上といわれる異常物価が進行する中で物価値上げ反対闘争も広範に組織された。3月10日には20名で米ヶ袋で地域署名を展開(署名201、カンパ5,395名)、消費者米価ではカンパで2名の代表を中央集会に派遣、更に、2.25物価メーデー、12.24総評決起集会にそれぞれ50数名が参加し、駅長交渉に参加するなど、地域共闘をつよめながら運動をすすめた。又、初診料の100円から200円への値上げなどの健保改悪に対し、共済組合制度の学習会等を組織した。

急増する定員外職員

 行(二)問題専門委員会が設置され、大学部の全国行(二)集会やブロック職懇に代表を送るとともに、8月には実態調査をおこない、非組合員を含む280名のアンケートが集約された。

 非常勤職員は前年の500名から1000名以上に急増し、待遇改善と定員化の要求は次第につよまっていった。寒冷地手当の支給を12月段階で獲得し、6月手当については期間率を100%として計算させ、1年以上継続勤務の実態を認めさせると共に、祝祭日を有給化する検討を約束させるなど、前進をみた。婦人部の中に非常勤対策委員会が設けられ、とりくみの中心的役割を果した。

260名の看護婦増を概算要求に

 切実な教職員の要求を大学の概算要求として政府に提出させるたたかいが春闘の中で前進した。5月15日の学長交渉で(1)看護婦の定員増、(2)非常勤職員の定員化、(3)大学宿舎の増設、(4)青葉山へのバス増設、(5)教養部・図書館の定員増、(6)職員旅費の増額、を昭和44年度概算要求に加えるよう要求した。

 特に看護婦定員増については、10.26、12.15と勤勉手当闘争のたかまりの中で、署名活動がすすめられ、病院長・学長は260名増要求の提出を回答、全学の総意に立つ概算要求の検討が前進していることを示した。

7年越しの保育所開設

 7年にわたる運動にささえられて、当初予定の8月20日には遅れたものの、正式には11月1日に保育所(東北大学職員授乳所)が農研隣に開所された。保育所は、保母6人、給食係1人の計7人の職員と園児50人の規模で、発足時は22人の園児で出発した。運営は、理事会(当局2、職組3、利用者2、職員2)で基本方針が決められ、実際の運営の細部は運営委員会(組合3、生協理事会1、生協労組1、院生会1、助手会1、新婦人1、利用者3、職員4)で行われることになった。しかし、職員の人件費は非常勤1名が認められたにすぎず、光熱水料、設備の充実費等の当局負担もなかったため、保育所財政は大変困難であった。保育料5000円+給食費(平均1500円)で不足する費用、65万を生みだすため、地方自治体からの補助の獲得、賛助会員の組織、バザーなど組合が推進役になっての運動がすすめられた。

IV ベトナム人民支援のたたかい

自衛官入学をめぐって

 9月闘争以来、大学の自治を守り、民主教育を確立する闘いは、平和と民主教育を守る連絡会議を軸に一貫して追及されてきた。

 4月20日には自治侵害事件の第一審で有罪判決が出され、あらためて公判闘争の強化が強調された。概算要求の民主化は事務当局の干渉を後退させ、全学の総意反映の努力が進んだ。学園整備計画の進展にともない、理学部理学・生物の移転、バス確保などで要求実現の努力もすすめられた。

 全国大学で自衛官入学をおこなっている17大学、109名中、東北大学が最大の29名という現状が明らかになり、39年来くすぶっていた反対の運動が41年秋に頂点をむかえた。組合は新入学者の受入れ拒否を学長、工学部長に要求、教授会でも連日討議がかさねられ、結果的には9月に自衛官も含む入試がおこなわれ、大幅減員の4名入学となり、縮小の方向が検討されることとなった。

教育3法案粉砕の戦い

 教員を聖職として労働基本法の適用からはずそうとする「教育公務員特例法案」、管理職体制をつよめようとする「学校教育法一部改正案」、朝鮮人の民族教育に圧力をかける「外国人大学校法案」の教育三法案が、国会の最大の焦点となった。日教組は5.23全国統一実力行使を提起すると共に、連日、国会へむけての職場地域のたたかいをつよめ、知識人、文化人をはじめ広範な人々がこのたたかいに結集され、ついに廃案をかちとることができた。

 組合は、総合予算主義打破、大幅賃上げ、6月手当差別支給反対のたたかいとあわせて、三法案粉砕のため、情宣活動、ハガキ運動をおこなった。5.23は、廃案により実力行使は中止になったものの、東北大職組は、させいせまった勤勉手当差別支給に反対するたたかいを発展させるため、400名が参加して早朝集会を開催した。

ベトナム人民支援1億円募金

 米原潜による放射能汚染、九州大学への米軍機墜落、沖縄をはじめ日本全土のベトナム侵略基地化などに国民の怒りはつよまり、沖縄・小笠原全面返還やベトナム人民支援のたたかいが高まった。

 総評のかかげる10.21ベトナム反戦統一行動には宮城県でも昼夜2回にわたって開催され、8000名の参加をみた。4.28沖縄デーめざしてベトナム人民支援募金がよびかけられ、全国で1億円をこえる集約をみた。

 東北大職組も10.21に65名、11.5安保実行委員会に98名が参加し、秋闘を前進させた。更に、ベトナム人民支援では連絡会議で、4月12日に全学集会を開催、募金も目標の20万を上まわり、全学で30万円、組合独自で20万円を集約する大きな運動となった。

参院選で政策を聞く会

 67年9月、10月、政府は第5次選挙制度審議会で小選挙区制の答申をおこない、成立を計った。小選挙区制に反対する世論の高まりのなかで組合は、憲法会議主催の学習会への参加、街頭署名、ハガキ闘争を展開した。

 又、安保破棄諸要求貫徹実行委員会の呼びかけに応じて、安保破棄通告の署名大運動もはじめられた。第13回原水禁大会には8名の代表を派遣した。

 第8次参議院選挙に対して組合は、中央委員会で政党支持の自由と組合の要求課題をたたかう政党との積極的共闘の二つの立場を確認。更に選挙闘争委員会をつくり、政党への「要望と質問状」に対する回答を資料として出すとともに、安全保障をめぐる各政党の政策を開く会を開催した。

V 高まる職員組合の権威

労働基本権の実践的定着

 単一化にともない、全国的な課題や大学独自の課題のとりくみへの積極性と幅の広がりがみられたと同時に、組合は自らのたたかう力量を一層つよめてきた。

 10.26早朝集会に対する「官房庁通達」を撤回させ、勤勉手当差別支給反対の1時間休暇闘争を通じて、休暇権に関する一定の前進をみるなど、労働基本権確立の実践的前進がみられた。又、学内庁舎管理規則などをたてに強められてきた掲示規制の動きに対し、逆に、病院、医、工、非水、通研支部などで掲示板を設けさせ、掲示の自由をたたかいとった。

交渉権の確立

 保育所設置等のねばりづよいたたかいの時期に、文部省と当局は「予備交渉」によって交渉権を制限しようとする動きをつよめていた。しかし単一化以来、賃金闘争を中心とする諸課題のたたかいのなかで、当局との交渉が非常につよめられ、学長会見も度重ねて実現した。特に勤勉手当闘争では、組合員の結集した力によって会見をかちとるなど、交渉権の実質的確立と定着をみた。この交渉権の確立は同時に、大学における職員組合の権威の高まりの反映でもあった。

青年部・婦人部の結成

 単一化組合は、教宣部・財政部・組織部・給与対策部・行(二)対策部・大学病院対策部を設け、組合活動前進のため、独自の活動をすすめた。更に、67年10月には青年部が、68年5月には婦人部が結成され、運動に幅と厚みを加えた。また、厚生活動のとりくみを開始し、2月に労働金庫に加入すると共に日教済の活用にふみきり、6月の募集で72名が加入した。68年4月から書記局員を1名ふやし(横田有史)、2名となった。

教養部・単一化加入を決定

 大学部への結集を強めるため、10月に80名を登録増し、180名とした。又、地域共闘の強化のため、地区労・県労評へ400名の登録(200名増)と国公共闘500名の登録(300名増)をおこなった。

 単一化以来、組合員の増加がみられ、1年間で加入169名、脱退57名で純増112名をみた。更に、東北大学の教育研究機関の重要な地位にある教養部が67年10月、単一化加入を決定(組合員135名)し、単一組合は新たに大きな力を加えることとなった。

第十七章 「実力行使」闘争の前進と定着(1968年7月~69年6月)

I 給与改訂時期の決着をめざして

揺らぎはじめたアメリカの世界支配

 ベトナム侵略戦争を続けるアメリカでは、徴兵忌避を始めとする反戦運動が学生、婦人、宗教家等、広範な市民を結集して空前の規模となり、ベトナムでの相次ぐ敗北、ドル危機、増税による国民生活の圧迫、労働強化、黒人問題などと結びつき、ジョンソン政権は自国内でも孤立を深め「北爆停止」表明、秋の大統領選挙不出馬表明等に示される後退を余儀なくされるに至った。同時に英国におけるポンド切下げを始め欧米諸国内での政治、経済の諸矛盾が進行し、アメリカの世界資本主義体制内における支配的地位が根底から揺らぎ始めた。

犠牲を国民に強いる佐藤内閣

 しかし佐藤内閣と独占資本は、1967年秋の日米会談にもとづき安保体制の一層の強化と反動的・軍国主義的政策の一層露骨な追及をすすめた。1968年度予算では総合予算主義と財政硬直化を理由として徹底した高物価、重税、低賃金政策を押しつけ、軍国主義体制強化と独占資本のためには多額の予算を組んだ。公務員に対しては僅かに500億円の予備費くみこみによって賃上げ抑制を図り、定員の5%を削減し合理化と労働強化を企図した。さらに消費者米価を始め国鉄運賃、酒、タバコの値上等、国民からの収奪を強化し、また、社会保障を全分野で大幅に削減し生活保護打切り、医療保険、失業保険の改悪を企図するものであった。他方三次防(2兆3000億円)遂行のためには防衛費4220億円、自衛隊員2万4000人の増強、警察機動隊1500人増が見込まれ、また海外協力には4600億円が計上された。

深刻化する教育と研究

 このような予算措置をとる一方、教育三法、総定員法、靖国法案等の反動的諸立法を提案し、教科書検定、神話復活、「明治100年」の大宣伝等、現行憲法の理念の否定と軍国主義思想と教育を普及、強化しつつあった。

 大学の教育と研究は、このような政策のもとで深刻な状況におかれた。病院看護婦の定員不足、大学業務の定員外職員への依存性の進行等に端的に見られるように、低賃金、労働強化が深刻化した。さらに政府は、学問分野の研究、発展という内面的要求を利用しつつ大管法、科学技術進行基礎法等の制定画策、科研費配分問題等に見られるように全体として大学を米日独占資本の支配下に組み入れようとする大学政策を進めようとしていた。ここに大学の教育と研究を国民のものとして発展させるたたかいが、昨年に引続いて、生活要求に根ざすたたかいと共に不可欠の課題となった。

一部学生の挑発行動の拡大

 全国大学における闘いの昂揚の中で、大学のたたかいを内部から撹乱、破壊し、国家権力の介入を招く口実を与える一部学生の挑発的行動が、大学の管理運営の非民主性と大学内の矛盾を利用しつつ進められ、「全構成員による自治の確立」という連合会発足と同時に追及されつづけてきた課題が、ここに新たな意味をもって闘われることとなった。

 このような情勢のもとで、1968年度は賃金大幅引上げを始めとする生活を守るたたかい、大学内に差別と分断をもちこむ勤勉手当の差別支給反対のたたかい、定員増を始めとする教育予算増のたたかい、労働基本権奪還、権利拡大と労働条件改善のたたかい、大学の自治、学問の自由を守り民主教育を確立する大学民主化のたたかい、平和と独立・民主主義を守るたたかい、組織強化などを重点として、広範な闘いを展開した。

総合予算主義化の賃闘

 0.8賃金闘争は、総合予算主義の下、公務員の給与引上げを予め予備費(僅か500億円)に組み込むという新しい情勢の下で闘われた。人事院勧告は、政府の総合予算主義に追随、屈伏した低額勧告でかつ特昇拡大による労務管理の拡大強化として特徴づけられるものであった。職組は、給与改訂の実施時期を5月1日にせよ、最低引上額3,500円を保障せよ、地方公務員の給与改訂財源の国庫負担を統一要求とし更に大学独自要求として定員外職員の定員化と5%の定員削減反対、教育予算増額を掲げてたちあがった。

二波の早朝1時間実力行使

 職組は人勧前の階層別全国集会への参加、政府・人事院(中央・地方)交渉、400名近いハガキ闘争、ブロック職懇への参加を始めとして、10.8、12.18の二波にわたる早朝1時間の実力行使を設定し、第一波を62%の賛成率のもとに成功させた。この全国的な闘いによって8月実施という閣議決定をくつがえして7月実施をかちとることができた。これは総定員法との引きかえとして行われたという問題はあったが、5月実施実現への展望を切り拓いたものとして、高く評価される。この成果によって第二波は中止となったが、早朝30分の全学集会を病院前で行い看護婦増員闘争への支援を行った。

II 勤勉手当闘争、看護婦増員闘争の勝利

36時間の予備交渉

 また第3回中央委員会は前年度からもち越された勤勉手当一律支給問題に決着をつけるという方針を決定した。組合はこの決定に基づいて11.27の1時間実力行使(賛成率63.6%)を行った。一方、26日午前11時から27日午後11時半まで36時間にわたる部局長会議との予備交渉が常時百数十名を超える組合員の結集のもとで続けられ、学長を含めた部局長会議代表団と組合代表団(60名を目途とする)との交渉についての「申し合わせ事項」が成立した。

一律支給かちとる

 これにもとづき翌28日午後1時から29日午前6時半までのべ17時間にわたる交渉によって遂に学長から「一律支給にふみきりたい。至急評議会を開いて一律支給をきめるようこの交渉にあたった全員で全力をつくしたい」との回答を得た。この間、組合員は終始百余名が徹夜で見守った。

文部省の差別と分断政策への回答

 交渉団は、大学自治を守る真の力は教職員の一致団結によって始めて創造されること、「ローテーション」方式も差別を建て前とする方式であり、基本的には文部省の狙う教職員の中に差別と分断をもちこむ政策に追随するものであること、「通達に従わない大学に対しては、予算や定員にたいする卑劣なしめつけを示唆する」文部省に対して、学長を始め部局長、評議会は教職員の団結に依拠して大学自治を守り発展する立場に立つべきであること、更に全国の大学と手を結んで文部省の卑劣な干渉と対決する姿勢をもつべきであることを様々な角度から訴え、遂にこの主張を認めさせた。このことは、大学自治を守り発展させるためのその後のたたかいに大きい影響を与えた。

看護婦増員を実力行使で

 病院支部は、前年の260名の看護婦定員増を概算要求に盛り込むことを確約させたことに引続いて69年度も責任ある姿勢をとるよう、学長、病院当局に要求した。一方昭和40年10月の人事院判定「月8日、複数夜勤」を一つの拠りどころとして、12月予算編成期に向けた全国大学病院職組の闘い、とくに新潟大学での、組合ダイヤによる闘争で初年度75名定員増を約束させた闘いに呼応して、東北大職組第4回中央委員会は実力行使をもって増員要求を迫ることを決定した。

自主勤務割闘争へ

 この戦いは看護婦定員不足によって引き起こされている深刻な医療の実態を変えるという点で単に合理化反対の増員要求のみでなく、「国民の医療を守る」という重要な側面をもつものであった。しかし、管理者側の様々な攻撃、組合の主体的な力量不足もあって中央委員会決定を貫くことはできなかった。ひきつづいて1月上旬に、人事院判定に、人事院判定に基づく自主勤務割を作成しこれによって2月1日から勤務につく方針が決定され、非組合員を含めた職場討議が進められた。この中で多くの患者や意思の支持が高まり病院当局への批判の気運が盛り上がった。

195名の確認書

 1月30日に、組合は病院当局と要求項目を提示して交渉を行った。この交渉において組合は当局の一定の誠意を認め「確認書」を取り交わして、2月1日からの実力行使を回避することにした。確認書の内容は、人事院判定の完全実施に必要な不足員は195名であり、この増員を3ヵ年計画で実現するよう努力することを始め、増員が行われた場合の定員配分に関する取り決め、非常勤職員としての看護婦の待遇改善、保育所設置問題、夜勤時の交通費支給を3月1日実施をめざして努力する等であった。このたたかいは、この年を含めて次年度以降看護婦定員増を実現した端緒として重要な意味をもつものであった。この闘いを通じて組合への当局の圧迫に対して闘う姿勢が確立され、以後の病院民主化闘争、組合組織の拡大強化への土台が築かれた。

1割を超えた非常勤職員

 昭和39年度に始まる公務員の欠員不補充政策、さらに43年度から始まった公務員定員の5%削減政策は、理工系学部の急速な学科増、学生増に伴う施設・仕事量の増大と相まって、厳しい労働強化が追行し、非常勤職員への依存性をますます高め、その数は全教職員の1割を超えるに至って、職員組合は、定員削減に反対し、定員増と全員の定員化を要求して闘うとともに、非常勤職員がうけているあらゆる不当差別をなくし、待遇改善をはかるために学長交渉、学部長交渉を行い、いくつかの成果をあげた。

呼称を「定員外職員」へ

 すなわち、勤務の実態からみて従来の「非常勤職員」なる呼称は不当な差別を意味するものであり、「定員外職員」と改めること、年末・年始の特別休暇4日~6日分の実質支給、等である。また国公立大学との連帯も深め、定員外職員連絡会議が発足し組織化が進められ定員外職員白書づくりが行われた。また年度末の採用手続更新の際の一日首切りに反対し、農研、図書館、理学部、非水研、農学部、通研等で定員外職員の集会が行われ、抗議電、声明、学部長交渉等、定員外職員自身の闘いが高まった。

注目される4.2最高裁判決

 1969年4月2日、最高裁判所大法廷は都教組勤評事件と、安保6.4仙台高裁事件について判決を下した。この判決は、公務員労働者にも労働基本権は基本的に保障されなければならないことを認めた点で、さきの全逓中郵事件判決の内容を一歩すすめたものであり、政令201号による「占領体制」を崩壊に導くものとして注目されるべきものであった。これは、昭和23年に始まる政令201号、これをうけついだ国家公務員法(地方公務員法を含め)体制に対する長期のねばり強いたたかいの結果かちとられたものである。しかし安保6.4判決では、政治目的をもった争議行為の「扇動」は違法とし刑事罰を認めるという限界をもつものであった。このことは労働運動を「経済闘争」の枠内にとどめておこうとする支配層の要求を代弁しているものである。

地域労働者との連帯

 学内ではこの1年間、学長交渉、部局長交渉が定着し、交渉権が確立し、職員組合の権威が高まった。同時に、総評を中心とする弾圧救援カンパ、白鳥事件再審請求運動の全国縦断行進、集会、カンパ、ハガキ闘争への参加、前金川岸、七十七従組不当解雇反対闘争等、全国地域の労働者との連帯を高める運動にも積極的に参加した。さらに住宅、保育所の充実、拡大にも力を注いだ。

III 「大学紛争」の激化

 1968年7月から始まるこの1年間は、いわゆる「大学紛争」の激化と、これを最大限に利用しつつ行われた政府自民党の大学自治への介入と破壊、さらには戦後の民主主義的理念にもとづく日本の教育制度全般の、近代主義的、軍国主義的立場からの再編をめざす中教審答申とそのなしくずし的実現に反対し、全構成員による大学自治の確立と大学の民主的改革をめざすたたかいによって特徴づけられる。東北大学では、一部ヘルメット学生集団が10月16日、はじめて本部事務局を封鎖し、組合書記局の窓ガラスを破るなどの暴力行為をおこなった。ただちに結集した全学の教職員、学生がこれを包囲し、武装集団はヘルメットをぬぎ、裏口から厚生補導の教官に見守られながら逃げ出し、数時間で封鎖は解除された。

発端となった東大「紛争」

 68年1月、東京大学医学部における医師法の一部改正反対闘争に関する学生処分を発端として東京大学は「紛争」状態となり、大学「紛争」は急速に全国大学へ拡大していった。東京大学をはじめ全国大学の教職員組合は「紛争」の原因が政府自民党の長年に亘る反動的な文教政策と、大学における非民主的な管理運営と教育体制にあったことを明らかにし、同時に一部学生の占拠、封鎖、暴力行為が問題の正しい解決には役にたたず、逆に権力の介入を許し政府自民党の大学自治破壊の攻撃に口実を与えるものであることを指摘して大学問題にとりくんだ。

自主的解決を阻む政府

 東京大学では広範な学生・教職員の努力により自主的解決がされるとともに民主化の基礎として「確認書」が圧倒的な支持のもとでつくられた。しかしこの「確認書」に対し、政府自民党は集中的なアカ攻撃を加え「紛争」の自主的解決と民主化の道を阻むことに意を注いだ。東大「全共闘」を名のる学生も「確認書粉砕」を叫び自主的解決を阻んだ。1月18、19の両日に亘り、機動隊による安田講堂などの封鎖解除が進められたが、この状況はテレビ中継を始め、新聞・ラジオを通じて大宣伝された。これは政府が「大学は荒廃しており、教育をおこなえない」という口実のもとに東大入試の中止を一方的に決定するための一つの布石をなすものであった。同時に政府は「紛争」収拾を口実として中教審答申に基づき大学管理法の制定を企図した。

7大学組合委員長「声明」

 このような状況の推移の中で大学職組は、1月7日、東大・東京教育大の入試中止と他大学への定員振り分けの意図に反対する7大学教職員組合委員長声明、これにつづく46大学教職組連名の声明等を始めとして広範なたたかいを展開した。東北大学では1月7日、25日の2回にわたり連絡会議主催の「文部省の大学自治干渉に対する抗議集会」、「政府の大学自治破壊に抗議する1.25東北大学全学集会」が開かれた。

戦後初の教育要求実力行使

 日教組は2月20日、民主教育を確立する見地から「今日の大学問題に対する見解」を発表しさらに大学部は中教審答申(正式答申は4月30日)に反対し大学の自治を守り民主化をかちとるために3.19全国統一行動を提起した。このたたかいには東北大学職組を含め、14大学が1時間、12大学が30分の時間内くいこみの実力行使で参加し、多くの大学が勤務時間外行動で加わった。この統一行動は、ひきつづいて闘われた5.23、6.10、7.1、7.10の五派に及ぶ闘争の第一波をなすものであり、戦後始めての教育要求に基づく実力行使の闘争であった。批准投票は、投票率84.6%、組合構成員に対する賛成率58.7%、集会参加者450名であった。この戦いは大学にたいする権力の介入、干渉には毅然として闘うという姿勢を全学的に確立し学園民主化の闘いを前進させる土台を築き全学諸階層の闘いへの展望を切り拓くものであった。

「大学運営臨時措置法」の提出

 4月30日、中教審答申を受けた政府は直ちに大学法の立法準備をすすめ始めた。組合は、後に大学運営臨時措置法案として国会に提出されたこの法案の基本的狙いが紛争処理の権限を文部大臣に集中し、大臣の権限によって学園の警察権の導入と常駐化を合法化し、さらに大学の封鎖、廃校の措置までとることを可能とするものになるのであろうという判断をし、このような立法は「紛争」を解決する上で役に立たないのみではなく、逆に大学の正常な運営を根本的に妨げ大学の自治、学問の自由をその本質において否定するものとしてこれを阻止するたたきに全力を挙げてとり組む方針を明らかにした。

60年安保を上まわる規模の闘いへ

 同時に県内で教育労働者が中心となって労働組合を始め広範な民主勢力全体の闘いに発展させることが必要であることを確認し、30分の実力行使を行うとともに5.23集会を宮教協の主催で行うよう申し入れた。この集会は、一部武装学生の妨害で会場変更を余儀なくされたが、4000名をこえる教職員、学生が参加し60年安保闘争を上まわる規模となり、学内の闘いのエネルギーを結集し、これを学外の労働組合と結合させる上で重要な役割を果した。集会後のデモ行進に一部の武装学生が突っ込んでくるという事態も起こったが、整然とデモ行進を成功させ、同時に3万枚のチラシを街頭、個別訪問で市民に配布し「大学立法」の危険な本質を訴えた。

封鎖・妄動の拡大

 大学立法反対の気運が全学的に昂揚する中で一部の学生集団の挑発的活動が活発化した。すなわち6月2日、学外でつかまえた私服刑事を法文二番教室につれて正門をしめてバリケード封鎖を行い機動隊の学内乱入を招いた6.2事件、教官を含む学内12氏の呼びかけによって準備された川内記念講堂での6月4日の「大学立法に関する全学討論集会」を、ゲバ棒と鉄パイプ、投石で会場設営中の職組、院生、学生からなる会場係を襲って暴力的に破壊した6.4事件、ひきつづく6月5日早朝からの教養部管理棟の占拠・封鎖、6月25日の教養部理科実験棟の封鎖占拠を経て秋の理科研究棟封鎖へと不法な行動を拡大していった。

一部学生に対する組合の「見解」

 組合が団結をかためて大学立法に反対し大学の民主化をたたかってゆくためには、これら一部学生の意見と行動について、組合が正しい評価をもち意志の統一を図ることが不可欠であった。すでに68年10月29日、第6回中央委員会は、「全共闘」を支持する一部学生にたいする組合としての意見をまとめるために討議素材を発表するという課題を執行委員会に付託した。執行委員会は4月20日、それまでの一連の経過を分析して見解(案)を作成し討議資料として職場討議に付した。

『組合運動とは全く「異質」である』

 この見解(案)はその後の事態の推移の中で基本的に正しいことが認められ組合の見解の基本となった。すなわち、「学園紛争」の契機は様々であるが、その根源には政府・自民党の反動的文教政策と政治姿勢があり、これに学内の非民主的潮流が結びついて様々な矛盾をうみだし大学内諸階層の団結を妨げて大学自治を閉鎖的かつ形骸化したものにしていること、しかし本学における40年問題のその後の経過、最近の勤勉手当一律支給闘争の経験は教職員の力に依拠した闘いが大学を全体として政府の反動的政治姿勢に対決する立場に立たせることが可能であることを示しており、「一部学生」の主張する「東北帝国主義大学解体」という考えは、どのような条件のもとでも組合員の要求をかちとってゆく組合運動とは異質なものであること、また組合が従来から努力してきた組合民主主義を貫く立場は、多数決を原理とする民主主義の否定、民主的な組織原則の否定という一部学生の立場とは全く相容れないものであり、彼等の主張に反対する人々や組織にアカ攻撃を加えて組織や指導機関に対する不信をあおり、組合幹部をリンチの危険にさらしていることは組合として認められないこと、また彼等の行っている学園封鎖は大学における労働者の労働の権利を一方的に奪うものであって組合運動の発展を阻害するものであり、国家権力の強暴さに対し広範な統一と団結の力に依拠して闘ってゆく組合運動の理念とも相容れないこと、また、彼等の行動は政府の大学支配政策を合理化する口実を提供するものであり、展望をもたない「大学否定」を社会的に提起することは、却って権力による大学支配に手をかす結果を招くものであること、等をのべ、労働の権利を保有する教職員にたいする「一部学生」の暴力的な妨害にたいしては、これを許容することができないと同時に、「一部学生」を口実にした警察権力の一方的介入にたいしては断固として反対することを述べたものであった。

自主封鎖解除の行動

 6.4集会破壊に対する4~5日未明にわたる一部学生への抗議行動(学生・院生・教職員3000名)への参加、6月7~8日の教養部管理棟封鎖に対する抗議行動と、「平和と民主教育を守る連絡会議」の構成組織として教職員、院生、学生とともに行った自主封鎖解除の行動(当初逆封鎖の方針であったが現地の状況に応じて方針が変更された)等は基本的には右の見解に基づくものであった。この封鎖解除は、「一部学生」の狂暴さに対する過小評価もあって不完全に終わった。この職場をとり戻し、学園から暴力を一掃し、大学内に民主主義を回復し確立してゆくたたかいは次期にもちこされた。

全構成員による部局自治の確立

 この期はまた各部局で全構成員による自治の確立の必要性が認識され始め、従来の「教受会自治」の枠を超えてゆくたたかいが進められた。68年が部局長の改選期にあたっていた農学部、理学部、工学部等で、各階層代表による連絡会議が組織され学部長選挙の改革が検討された。その結果農学部では全教職員、院生が信任投票に参加し、さらに決定権をもった投票に助手(4.7号俸以上)が参加して選挙が行われた。理学部では教授会代表、院生会、自治会、助手会、職組よりなる5者連絡会が作られ、学部長選挙の検討が全学部を挙げて進められ、その結果全構成員が意志反映を行う信任投票に参加でき、全教官が決定権をもつ投票に参加できるよう制度が改められて選挙が行われた。この部長選改革は、このあとにつづく理学部改革につながるものであった。工学部では部長辞任に伴う学部長選を従来通り教授会で行おうという動きにたいし、院生、学生、職組が厳しく反省を求め、学部運営の民主化の第一歩として学部長選を位置づけるよう要求し、教授会のみで行うことを阻止した。四者連絡会(職組、院生会、自治会、検討委)が作られ、事務代行をおき検討がつづけられた。このような部長選改革は、工学部の原子核工学科をめぐる問題、農学部の水産学科の問題等、従来の管理運営制度の欠陥とも結びついて起こってきた問題の解決にあたり、制度上の改革の必要が認識され、それにつながる第一歩としての意味をもつものであった。

選研支部の結成と工学部支部の分離

 大学問題が学園の内外で厳しさを増す中で、組合の整備強化もすすめられ、69年2月には選研支部が60名の加入で結成された。また第二回大会の付託にもとづき6月28日に工学部支部の分離総会がもたれ、前後して、通研、非水研、速研の支部設立総会が開催された。分離設立時の組織人員は、非水研が51名から62名に、速研支部が21名から40名に急増し、通研支部が63名、工学部支部が280名であった。そして工学部支部所属であった書記(佐藤美代子)は分離にともない本部所属となった。また、この間、大会決定にもとづき、書記長(真壁完一)が初の在籍専従(9月から2月)についた。

第十八章 「人勧完全実施」の決着(1969年7月~70年6月)

 安保固定期限の終了する70年6月23日を控えた1969年の労働運動は、政府・独占の首切り合理化、権利抑圧、大衆収奪が一層強まる中で新たな前進をとげることとなった。また、長期に及ぶ「大学紛争」も全学の教職員、院生、学生の団結したとりくみの中で一定の終息を見、それと同時に大学民主化のたたかいは新しい転換期をむかえることとなった。

I 「大学立法」のファッショ的強行

五波に及ぶ実力行使

 「大学紛争」を口実、テコに5月25日に国会に上程された「大学の運営に関する臨時措置法」に反対する闘いは、全国の教職員、学生、労働者をはじめ、広範な人々によってかつてない程の規模と高まりを示した。

 組合は、3.19以来、日教組の統一指令による実力行使を五波にわたっておこない、7.10闘争においては700名をこえる組合員が行動に直接参加するに至った。又、学内諸階層と連帯した統一闘争は、国会情勢の切迫に対応し、7.23、7.25、7.30、7.31、8.4、8.5と六波にわたって組織された。

相次ぐ中央請願団の上京

 院内における野党の闘いに結合する中央請願闘争においても、7月22、23日の第一次請願行動には37名、7月29日の第二次に16名、8月3、4日の第三次に10名の代表を各支部からおくり、その他にも6月1、2日、6月23、24日、7月2、3日、7月29日から8月3日までのそれぞれの期間全国大学の組合代表とともに中央における闘いに参加している。

議会史上かつてない「強行」

 こうして、「大学立法」に反対する闘いは署名・集会・デモ・学外者への働きかけ・国会請願・ストなどきわめて多様に展開された。しかし、政府、自民党は国会の会期を大幅に延長する中で、8月3日、参議院本会議において、議会史上かつてないファッショ的手段で強行「採決」し、更に8月17日には、これを一方的に施行した。そしてただちに全国66大学を紛争校と「認定」し、「紛争報告」を督促するなど、同法をたてにした権力的大学介入にのり出した。

示された「大学立法」の本質

 この大学立法が強行された経過は、この大学立法が、第一に差別と選別の政策によって大学の反動的再編成をおしすすめ、日本における教育の全体系を独占資本の利潤追求に奉仕するよう権力支配の下におくこと、第二に70年安保にむけて政府、自民党の軍国主義復活の道と対決する学生運動、民主勢力の闘いを直接的に弾圧することをねらったものであり、「大学紛争」を根源にさかのぼって解決するものでないこと、第三にその内容は紛争認定による教職員の休職、減給および大学の休・廃校権限を文部大臣に集中するというきわめてファッショ的、反動的性格のものであること、などを多くの国民の前に益々明らかにした。

大学立法反対闘争の貴重な教訓

 70年度の定期大会は大学立法反対闘争の成果と教訓として次の様な点を確認している。

  1. 政府、自民党が一部学生の暴力を最大限に利用して「大学立法」についての有利な世論を形成していた、闘いの出発点と比較するなら、最終的に私たちの闘いは議会制民主主義破壊の暴挙を糾弾する広範な世論の形成へと発展し、政府の政治責任を追及し、国会の解散を要求する国民運動にまで発展するという、かつてない点に到達したこと。
  2. 職員組合が、この期間、連続する実力行使を闘いぬき、中央請願闘争における代表派遣を要請以上に成功させてきたことは、それまで賃金闘争において蓄積してきた組合の闘いの力量を一段と引きあげ、闘う組合へ大きく前進したこと。
  3. 大学立法に反対する東北大学の闘いは、概括的には、学内の民主的諸組織の反対闘争が先行し、これを核にして部局ぶるみの闘いに発展し、更に部局をこえ、階層をこえる闘いに止揚するという経過を辿った。この過程で未組合員と共にどう闘うか、部局を構成する諸階層の統一と団結をどう確保するかに大きな力点がおかれ大学に対する権力の介入、干渉に対する学内の抵抗力はかつてなく蓄積され、全学的な規模での抵抗組織を確保する展望がひらかれたこと。
  4. 大学の自治を教授会の自治に矮小化し、教授会を特権的に束ねる傾向との闘いが、組合の内部においても教官層の内部においても前進したこと。また、組合の実力行使を違法視し、弾圧しようとし、当初は「法案が通れば行政上の立場から、立法の従わざるを得ない」と回答してきた学長をして、8月12日の「談話」においては「これを容認できない」という立場に立たせたことなど、闘争を通じて学園民主化に一定の基盤をつくることができたこと。
  5. 教育労働者をのぞいては、県内の労働組合を闘いに組織し、県内共闘を前進させる上で不充分であったこと。
  6. 日教組は、当初の単一の共闘組織を結集する方針を貫くことができず、「大学問題共闘会議」と「大学法案反対国民連合」の二つの組織が並存し、全国的な単一の共闘組織がついに結成されなかった。このことは、大学教職員組合の闘いの展開に少なからぬ複雑な要因をもたらし、全国的統一戦線の結成が大きな意義をもつものであることをあらためて示したこと。

全国大学で無効宣言

 「大学立法」のファッショ的強行と権力的大学介入に対して、全国の大学関係者は、その無効又は、非効力を声明し、この法律にとらわれることなく大学の自治を守り、「紛争」の自主的な解決を貫くという強い態度を明らかにし、大学立法の実質化を阻止する闘いはひきつづき組織され、発展していった。東北大学においても、全学的封鎖に反対する闘いと結合し、教職員の要求を基礎にした自主的・民主的な大学づくりの地道なたたかいが前進した。

II 全学的封鎖に対する闘い

封鎖を認めさせる封鎖

 一部の暴力学生集団は教養部事務棟(6.5)、理科実験棟(6.25)の封鎖にひきつづき、8月27日には片平構内に足をのばし、学生部を封鎖した。その最大の理由は「8.8声明─彼らの暴力と脅迫に屈した一部の補導協議員が、彼らととり交わした『確認書』を撤回し、封鎖を容認しないことを改めて確認した厚生補導協声明─の撤回」であった。つまり「封鎖を認めさせる封鎖」である。

封鎖のアパート化

 彼ら自身の間で「封鎖のアパート化、ナンセンス」ということが問題になっていたことに端的に示されるように、広範な大学立法に反対してたたかっていた時彼らは封鎖の中で眠りこけていた。そして、だんだん孤立し、更に政府の強行採決で「挫折」した彼らは、「10月、11月決戦のさらなる進撃」へ、理不尽なはねあがり妄動を展開していったのである。その後の行動はそのことを更に如実に示している。

大学院へ全員入れろ

 10月5日深夜、青葉山理学部の生物棟が「全C共闘」を名のる100名あまりの武装集団と「生四闘委」により封鎖占拠された。その要求は、生物4年のクラス会でも否決され、生物係の教職員、院生、3年生はもとより認めていない「大学院の入試をやめて、希望者全員をいれろ」というものであった。つまり、彼らが日頃解体を主張している「労働力商品製造大学」に無制限に入れろ、というのである。

市民と組合への敵対

 10月10日、「全C共闘」を中心とする武装集団は「全国全共闘統一行動」の名のもとに「街頭行動」をおこし、機動隊との茶番劇「衝突」を演じた。市道、国道にバリケードを築き、敷石をはがし、手近にある乗用車・トラックを倒し、放火するなどして、一般市民に多大の損害迷惑を及ぼした。機動隊はそれを見ながら積極的に規制しようとせず、多くの市民から両者に非難の声があがった。

 そして更に、10月29日深夜、彼らは教育学部の建物を封鎖した。要求もスローガンも一切ない暴走であった。只、組合の歴史的な意義をもつ11.13ストライキを「犯罪的行為」と中傷し、組合の看板をこわすという、具体的な敵対妨害の行為であった。

連日の抗議行動

 こうした理不尽な妄動に対し、組合、院生・学生を中心にした広範な大学人がたちあがっていった。

 組合は、労働者が自分たちの意志に反して職場から追い出されるという事態を放任できないとの立場から、抗議にたちあがった。

 組合は学生部封鎖の8月28日から9月22日までのほぼ一ヶ月間、連日の抗議行動をつづけ、「封鎖なれ」とでもいうべき無力感じみた雰囲気を一掃し、広範な学内諸階層の抗議の意思をもりあげていく上で、大きな役割を果した。

学生部職員の早朝デモ

 学生部の職員が、毎日早朝、独自に抗議の行動をつづけるようになり、通りがかりの学生も、一団となって口ぐちに抗議の声をあげるようになった。

 9月16日に組合は、評議会に対して当日の会議終了後、構成員が組合と会見するよう申し入れた。当日は結果的に予備交渉となったものの、9月20日に組合員多数との交渉をかちとり「三原則」の欺瞞性と無責任さを追及した。9月29日には学生部職員の抗議行動に統一を申し入れたが実現はできなかった。

市民への“訴え”を全戸配布

 ひきつづき組合は10月7日、理学部封鎖に対する抗議行動を理学部支部を中心に組織、11日には、10日暴走化した行動に対し、片平本部前での抗議集会と大学問題宮城県共闘会議のビラを市内の全戸に配布する行動をおこなった。そして13日には、学生集団の具体的犯罪行為と五点の見解を明らかにし、闘いの強化をよびかける訴えを発表した。その内容は、一、我々の職場が暴徒集団の出撃基地としての機能を果すという事態は、決して放置できないものであること、二、こうした事態を招いた責任は、事実上封鎖を放置し容認するがごとき態度をとりつづけてきた大学当局にあること、三、彼らを学外に追放することがきわめて重要であり、犯罪者を追放する点では決して治外法権であるとは考えない。四、警察権力の暴徒集団に対する泳がせ行為を糾弾する。五、11.13のストライキは、大学を民主化する展望をきりひらくうえで大きな意義をもつ闘いであること、であった。

1000名以上の学生・教職員が包囲

 組合は、11.13ストを間近にしての教育学部封鎖拡大という、機動隊呼びこみの布石に抗議し、10月29日には全院協と協同した行動を起こした。翌30日には、全院協と文科系四学部自治会がそれぞれ主催する抗議集会がひらかれ、昼すぎから文、教事務系職員による封鎖解除が行われ、院生も協力して一部が解除された。「全C共闘」の暴力集団はそれに襲いかかり、暴力による片平構内の制圧を策動した。しかし1000名以上にふくらんだ学生・教職員・院生の多数に逆に包囲され、相当数のゲバ棒、ヘルメットがとりあげられた。

学生部の封鎖解除

 翌31日には組合独自で文・教育学部及び学生部の封鎖に対する抗議集会を開き、抗議行動の中で、学生部の封鎖を全面的に解除した。法学部自治会が先に解除した際に再封鎖された教訓をふまえ、資材の一切を運び出し、再封鎖を許さない状況をつくりだした。

警察力導入への動き

 暴力学生集団の行為や本質が議論の余地のない程明らかになりその孤立を具体的に顕在化させ決定的なものとしたたたかいがもりあがる中で、大学当局は、警察力導入の策動をはじめた。組合はその無責任さに深い憤りを感じ、「犯罪者集団を追放し、学園民主化のたたかいを前進させるために」と題する見解を発表し、全構成員の自治の確立による解決とより一層のたたかいの強化を訴え、7日には教養部の学生大会と並行して、文・教封鎖の抗議行動を昼休みに組織した。

 しかし、組合の危惧が的中し、11月8日には警察力の導入による封鎖解除もやむなしという趣旨を盛り込んだ、本川学長名による「全学の諸君に訴える」が出された。組合は11月10日、ただちに学長交渉をもち、組合の見解を示し強く訴えをおこなった。

「39項目要求書」の公開

 しかし、機動隊導入による封鎖解除の方針を正式に決めた評議会は県警との交渉を開始。この中で、県警が、大学当局の無能ぶりを逆手にとり何十項目かの要求条件を出しているという卑劣な策動を組合はキャッチし、一斉に大学当局や各部局長評議員との交渉を展開した。そして、11月18日、県警が大学に押しつけようとした「39項目の要求書」をついに全面的に公開させることができた。これは、警察権力の本質を大衆に暴露し大学の自治を破壊し、介入する手をしばっていく上で大きな成果であり、全国的にもはじめてのことであった。

警察に限定をつけさせる

 19日、組合は再び学長に会見を申し入れ39項目のうち特にあきらかに大学自治介入、圧殺の意図を示している項目を具体的に指摘した。同時に全部局の教授会に対して毅然たる態度を強く要求するとともに、21日には、学外の広範な市民に対して、警察権力の卑劣な策動と犯罪者集団の役割を訴える全戸配布を他の民主団体と共同して行った。

 こうした中で行われた学長会見では、「機動隊の導入は、その範囲を物理的な封鎖解除に限る」また「全学を結集して自主的に本学を我々の手で建て直す。これは大学の改革につながる。これが基本姿勢である」などの回答をひき出した。そして県警に対して、「封鎖解除にともなう措置に限る」「教育・研究の場としての大学の立場から可能な限り配慮する」との限定をつけさせたことがあきらかとなり、その政治的成果を確認することができた。

わずか3人が“抵抗”

 11月23日、機動隊が封鎖解除のため導入された。教養部の理科棟にわずか3人が残って“抵抗”したのみで、他では1人の封鎖学生もいなかった。多くの教職員・院生・学生の封鎖抗議には、実に狂暴に襲いかかり、“権力とのたたかい”をくりかえし口にしていた彼らは、なぜ無抵抗に逃げ出したのか。彼らの戦闘性に向けられている方向と本質があらためて誰の目にもあきらかとなり、同時に、東北大学にとって決して忘れてはならない日となった。

III 全構成員の自治をめざして

反動的潮流の強まり

 「大学法」の強行移行、それをテコに、全国的に機動隊による大学の封鎖解除が行われ、学内の反動的な管理運営の潮流による大学の自主的、民主的な闘いに対する攻撃が強まっていった。

 東北大学においても、この間の経過の中で大学当局の方針にはいくつかの容認できない姿勢が生まれた。例えば、11月23日当日、文教の建物に対する11.13街頭戦にかかわる捜索・検証にあたって、機動隊員を建物内に入れ、立会人ぬきにした研究室への立入りを許したこと、又、生物学科や教養部の教職員に対する任意出頭に際し、教職員に対する実質的思想調査や学内動向の調査や学内動向の調査がおこなわれているにもかかわらず、個人的問題として処理するなど、警察権力の本質をぬきにした安易な対応を行っていたこと。又、各構内のロックアウト体制の継続・解除についても、学長をはじめとするごく少数の部局長に権限を集中し、天下り式に方針を決定し、多くの不満や要求が反映されない状況を作ったこと。組合の11.13闘争に対する報復的な賃金カットの実施と文部事務官僚の権限の強化が明らかとなったこと、などに示された。

理学部管理運営の改革

 しかし、こうした反動的現象の一方、長期にわたる「大学紛争」の経験の中から、全構成員による自治の確立を中心とする大学民主化への動きが大きな流れとして登場した。

 69年初めに発足した理学部5者連絡会議は3月に学部長の選出を改革した後、ひきつづいて各層の役割を討議して「理学部管理運営制度大綱」をまとめ、各組織で批准のうえ70年から発効した。この新しく発効した制度では、運営委員会(教員)代表と院生・学生・一般職員の各層の代表それぞれ4名からなる学部協議会を設けることになった。同時に組合の主張により、学生・院生・助手・職組・教授会代表からなる五者連もひきつづき存続されることとなった。

農学部四者連

 農学部においても、学部長選挙の民主化にひきつづき、組合は「学部の改革に対する組合の基本的見解」を提案し、具体的討議に入った。又、封鎖解除に伴って、教授会、職員組合、助手会、院生会の4者連絡会議が結成され、学部の防衛にあたったが、その後も「農学部の制度をはじめとする諸問題について各層、組織が対等の立場で討議する場」としての性格と役割をもつ連絡会議に発展していった。

 他のいくつかの部局でも学部構成員による協議会・連絡会議が設けられるなど民主化の闘いはひろがりをもって前進しはじめた。

2つの改革委員会の設置

 又、全学的にも、自主的な改革を討議するため、評議会は二つの改革委員会をつくることを決定し、発足した。組合は、大学改革を進めていくために、学内での自主的、民主的組織である学生自治会、院生会、助手会、組合と評議会で、連絡会議を早急につくることを学長および評議会に提案した。

中教審アンケートのボイコット

 一方、69年8月に中教審が作成した大学制度の改革に関するアンケートが事務的に全教官に配布された。このアンケートは一層反動的な大学管理法案を作る道具にされるおそれがあり、しかも職業・氏名の記入を求めて思想調査的性格をもっていることなどから、組合は協力拒否を二度にわたって訴えた。大学立法反対のために結成されていた東北大学全学教官団世話人会もアンケートに反対する声明を出し、理学部ではアンケート用紙の回収が行われるなど、ボイコット運動が大きな高まりを示した。

前学長と前事務局長が証人席に

 こうした動きの中で、組合は本当に自主的で民主的な「新生東北大学の創立」を要望し、12月12日には「不当弾圧反対・立法実質化阻止・要求貫徹東北大学集会」を開催した。

 5年を経た東北大学自治侵害事件の控訴審における70年3月の東京公判に石津前学長と曽我前事務局長が証人席に立ったことは、一つの象徴的できごとでもあった。

IV 11.13と処分撤回闘争

転換点をむかえた賃金闘争

 「大学紛争」から大学民主化へと学園が大きく動く同じ時期に、日本の労働運動、特に賃金闘争も大きな転換点をむかえていった。

 69年春闘は、政府、自民党が国会会期を72日もおよぶ強行採決をくりかえし、大学立法をはじめ、総定員法、国鉄運賃値上げ、健保改悪、防衛二法などの反動法規をごり押しするファッショ的国会運営と並行してたたかわれた。

 この69年春闘では鉄鋼の一発回答を乗り換え、ストライキを中心的武器とした闘いによって民間15.8%、公労協13.8%とほぼ要求に近い賃上げ額をかちとった。

初の人勧前実力行使

 この闘いを引継いで、7月10日には公務員共闘としてはじめて人事院勧告前に大幅賃上げの要求を前面に掲げ、全国7単産の参加のもとに全国統一実力行使を闘い抜いた。この闘いで、政府、人事院を動揺させ、秋の闘いを発展させる基盤をつくると共に、定年制法案、学校教育法改正案を廃案においこみ、教特法改正案の国会提出を阻止することができた。

 8月15日に出された人事院勧告は、本俸手当をふくめて平均引上げ率10.2%(平均5,660円)と要求や春闘相場、物価上昇率に到底追いつかないものであった。

決着への11.13スト

 人勧前はじめての7.1実力行使をステップに秋の闘いがただちに組織された。そして11.13闘争は、69年の第10次賃金闘争の中で決定的意義をもっただけでなく、日教組が公務員共闘とともに10.21闘争以来積み上げてきた過去3年にわたる闘いの中でも重要な位置を占めるものであった。

 それは第一に人勧の実施時期に決着をつけ、本格的な賃金闘争へ発展させる重要な段階を画するものであり、第二に、公務員の賃金要求を安保条約の廃棄、沖縄の即時無条件全面返還という国民的課題と結合して闘うものであり、第三に労働基本権奪還のたたかいを前進させ、憲法違反のスト禁止を空文化させるという壮大な闘いとして位置づけられた。

早朝1時間30分の批准成立

 9月初めのブロック職懇、9月10日の第1回中央委員会をかわきりに、第2、第3回と引きつづく中央委員会で職場等議案が補強され、目標戦術形態も決定されていった。賃金要求と政治課題の結合や、4.2最高裁判決をテキストにした労働基本権についての学習活動が重視され、活発におこなわれた。政府に対するハガキ行動や1週間にわたる早朝ビラなども組織された。

 批准投票の結果は92%の投票率、90%の賛成率で批准が成立、11月11日に日教組委員長名による早朝1時間30分のストライキ通告を学長に手交した。

800名をこえる早朝集会

 11.13闘争は、全学的封鎖という困難な状況とかつてない当局の攻撃の下でたたかわれた。官房長通達はもとより、ストライキを違法ときめつけ、参加者を処分すると威嚇する学長告示も11日に発表された。

 こうした困難や、批准不成立が4支部あったという状況をのりこえるスト参加体制確立のとりくみが強化され、11.13早朝集会には800名をこえる結集をかちとった。5支部で賛成数を上まわる組合員が参加し、2支部で傾斜10%以下を確保、病院看護部では初の職場放棄を実施し、実力行使への土台を築いた。

「人勧完全実施」の政府回答

 この11.13全国闘争を背景にした政府交渉の中で、前年通りの7月実施を固執する大蔵当局を追込み、手当抜きとはいえ6月実施にふみきらせた。そして「昭和45年からはいかような困難があろうとも人事院勧告は完全に実施する」という政府言明を引き出し、人勧完全実施のたたかいに、一応の終止符をうつことができた。

12.17実力行使

 11.13に引続き、要求貫徹をめざし、12月段階に第二波ストライキを予定しとりくみをすすめた。しかし、政府・自民党は、広範な労働者・国民が安保条約の廃棄と沖縄の即時無条件返還を要求して大きく立ち上がりつつあることをおそれ、「沖縄の72年核抜き返還」という欺瞞をおこない、日米共同声明によって事実上の安保改定をおこない、謀略的に国会解散を強行した。

 従って日教組は12月段階の闘争を独自の地方確定闘争と位置づけるとともに、大学部は、不当弾圧・処分をはねかえし、欠員不補充の撤廃、定員削減反対、看護婦等の大幅増員、定員外職員の定員化、大学民主化などの諸要求実現のたたかいとして組織した。この方針をうけ、組合は、12月17日昼休みから勤務時間30分カットの実力行使を行い、「不当弾圧反対、立法実質化阻止、要求貫徹東北大学集会」を開催した。

全国的につよめられた弾圧干渉

 11.13に対する文部省・大学当局の弾圧干渉は全国的につよめられていたが、12.17集会を前後した各支部のたたかいの中で、ほとんどすべての部局長が「部局としては処分の意志はない」ことを確約した。又、12月23日の学長会見で学長自身も「現時点で処分や賃金カットについては考えていない」と回答していた。

 ところが、年明け早々、文部省は全国大学の庶務部長を集めて11.13闘争に対する処分をきびしく指示し、東北大学でも9日の部局長会議で、処分と賃金カットを学長権限で行うことを確認し、12日以降、いくつかの部局で表面化した。

300名が給与受領拒否へ

 組合はただちに各支部で交渉を始めるとともに、部局長会議構成員との団交を要求し予備交渉にはいった。しかし当局は、処分とカットの権限は学長にあり、行政・事務レベルのものであるからと団交要求も、学長会見も拒否してきた。そこで組合は、今回の処分は組合運動に対する直接的弾圧として許せないだけでなく大学の管理運営に重大な官僚支配を許すことになることを重視し処分撤回闘争の強化を確認し、16日午後には学長会見を要求し本部事務局にすわり込みを行った。その結果、3人の学部長が学長会見実現の努力を約束した。

 更に、1月分賃金の受領拒否の方針を決定し、17日には、農・科・通・非・図・農研・病・工などで約300名が賃金の受領を拒否する闘争に入った。

11名に賃金カットを強行

 しかしこの日、当初予定されていた14名のうち、11名に対して賃金と勤勉手当カットが強行された。更に、同日朝開かれた部局長会議が開かれ、「11.13闘争の違法性については問題としない。したがってこの闘争に対する訓告処分はとりやめる」ことが確認されたといわれているが、学長は闘争に参加した全組合員に対する厳重注意の処分を発表し、動揺しながらも尚、組合にたいし真っ向から挑戦する態度を示した。

 一方、農学部では学部長団交で賃金カットを保留させ、「19日まで撤回するかどうか考えさせてほしい」というところまでおいこみ、又、病院長は「カットの理由については、病院としては説明できない」という文書回答を出した。組合は同日、第5回中央委員会を開催し、経過と当面の方針を討議決定した。

学長団交への厳しい規制

 学長団交は1月19日、23日にようやく実現したが、大学当局は、団交中は組合員を事務局内に待機させないことなどの条件を文書で確認せよ、反すれば直ちに団交を打ち切るなど、かつてない厳しい規制を強要してきた。組合は団交実現を重視する観点からこの条件をのんでおこなわれた。

 交渉は佐藤委員長の質問途中で時間切れとなり、学長は引続いて交渉を続けることを確約して終了した。ところがその後、大学当局は、賃金カットの矛盾点が暴露されてくるに従い、様々の口実をもうけて学長交渉を拒否し続けた。

800名が追給受領拒否闘争

 そのため、1月30日、執行部は再び勤勉手当差額追給の受領拒否闘争を提起、急な提起に対する組合員の批判が一部にみられたものの、全体で800名が参加し、当局に強い衝撃を与えた。

 その後、組合は、2月6日に専門家を講師とした学習会をもち、更に2月20日には、学長交渉が再会されずにゆきづまっている賃金カット撤回闘争を中間的に総括し、発展させるため、「11.13闘争処分撤回、大学民主化実現東北大学集会」を開催した。しかし、学長交渉の実現は、賃金闘争と結合した4月段階の実力行動にゆだねられることとなった。

V 1970年代本格賃闘への指向

人勧前に山場設定

 第10次賃金闘争(11.13闘争)によって引きだした政府回答により、人事院勧告の実施時期を軸としてのたたかいは、一応の決着がつき、70年代の賃金闘争は、要求を直接政府にぶっつけ、人勧体制を打破し、ストライキを背景に団体交渉によって賃金を決定するという、本格的な賃金闘争を指向することとなった。

 70年賃闘は、その最初の年であり、本格的賃闘への過渡的段階のたたかいとして、それまでの人事院勧告後の「閣議決定期」の秋闘から「人事院勧告前の7月段階」にたたかいの山場を移しストライキを含む多様な戦術によって、私たちの要求にそった回答を政府・人事院から引きだす、という方針で取り組まれた。

5桁勝利をめざす1970年春闘

 12月段階で国公共闘の生活、意識実態調査を各層91名の抽出でおこない、2月には日教組大学部が始めて行った賃金アンケートを全組合員を対象に行い、「5桁の勝利をめざす春闘」への体制づくりがすすめられた。3月段階では、賃金カット撤回闘争と結合しながら、春闘共闘の提起する3.15、3.27の第一次、第二次統一行動に参加していったが、30名前後の参加にとどまっている。これらの弱点を実践的に克服するため、3.28一斉職場集会と3.31諸要求貫徹昼休み主会、当局団交の方針を執行部は提起した。3.31には約250名の組合員が参加し、人勧前に山場を移した70年賃闘を成功させるための一定の土台を作りあげていった。

4.17で「保助看法」粉砕

 引続き4月には、賃闘要求の正当性を当局に認めさせること、総定員法・定員削減反対、保助看法改悪反対、11.13賃金カット撤回、の課題をかかげ、4.17全国大学統一行動を組織し、日教組の特別指令にもとづく早朝29分カットの「要求貫徹集会」は附属病院玄関前でひらかれ、強い雨の中を約250名の組合員が参加しておこなわれた。「保助看法」については、4月23日中央集会と国会請願行動がもたれ、改悪を阻止することができた。

「学長交渉実現行動隊」

 中断していた「11.13処分問題」と3.31要求貫徹集会で全学的に確認された「要求書」で、組合は学長交渉を再び申入れた。しかし当局は「学長は組合の要求にたいして当事者能力をもっていない」「組合の要求は提示された要求書を見れば判る」ときわめて反動的な姿勢で交渉拒否の回答をしてきた。組合は、その生命ともいえる交渉権を回復するため「学長交渉実現行動隊」を組織した。

6時間の行動で学長交渉を実現

 4月20日に開かれた学部長会議、研究所長会議に対し、1月23日以来の一方的交渉拒否の経過と組合の見解を説明し、交渉を申入れた。「行動隊」を中心とした組合員の約6時間に及んだこの日の行動により、学部長会議及び研究所長会議に出席したすべての部局長が責任をもって学長交渉の実現に努力することを、確約した。第1回目の交渉は、文科系学部長、自然科学系学部長、研究所長の代表各々1名の陪席のもとに4月30日に実現要求書に基づく5月20日の交渉をはさんで第2回目が5月29日、第3回目が6月17日と行われ、賃金カットをめぐって、議論は平行線のまま次期にひきつがれていった。

5人に1人の闘争委員会

 要求を人事院勧告に盛り込ませることをめざし、4.17にひきつづき、7.10公務員統一実力行使が提起され、組織された。

 組合は5月9、10日、仙台市茂庭荘でひらかれた東北ブロック活動者会議にひきつづき5月23日に臨時大会を開催、更に6月13日には活動者会議を開き、6.23の安保廃棄の闘いと7.10闘争委員会を組織することなどの具体的活動方針を決定した。

 7月1日には、85名が参加して全学闘争委員会を開催、700名が参加した6.23の総括と7.10にむけての最終的意志統一がおこなわれた。活発な職場討議・情宣活動を背景に6月27日、7月3、4日の中央動員に7名の派遣、300枚のハガキ要求闘争が組織され、7月6日から8日までの3日間行われた集会参加決意書の集約は700名以上に達した。

7.10ストの中止

 公務員共闘は、「人事院設置以来の高額大幅勧告は必至」「実施時期は、今年は5月とするが将来は4月にせざるを得ない」などの人事院総裁回答と、「人事院勧告は、財政上困難があっても完全実施する」という総理府総務長官回答をふまえ、9日午後1時、正式にスト中止を指令した。

 組合は9日午前中に支部代表者会議をひらき経過を確認すると共に、時間外集会開催を確認。7.10当日は午前8時定刻より約500名が参加して、整然かつ戦闘的な雰囲気に満ちた集会が30分間、開催された。

工学部で宿日直を全廃

 本格賃闘への躍動の中で諸要求実現のとりくみも活発におこなわれた。

 工、理等の移転・施設拡大にともない、宿日直の全廃、大幅改善の要求が高まり、本部に宿日直対策専門委員会が設置され、各部局アンケート調査などがおこなわれた。学科単位で拒否闘争が組まれた工学部では応化を除いて5月1日より宿日直を全廃させる成果をかちとった。その他排水研では5回の交渉をかさねたのをはじめ、通研、理学部、選研等でも改善のつっこんだ検討がすすめられた。

富沢独身寮と北四保育所の開設

 学長・経理部長交渉を重ねる中で、昭和45年度予算で76名収容の独身寮を富沢に建設させることを約束させ、また公務員宿舎の入居基準を明らかにさせた。前年の病院闘争で設立をかちとった北四保育所は9月10日に開所することになり、利用者を中心に体制づくりがすすめられた。

194名の定員削減

 総定員法をテコにした、定員削減として政府は国家公務員の定員を3年間で26,261人減らすことを決定。文部省は2,982人の削減計画をたて、その第1年度である44年度には教官143人、事務系851人の削減を各大学に強制してきた。教官削減については欠員不補充凍結分364人を含め、507人にのぼる数であった。東北大学には「大臣裁定」により教官52名(44年度36名)、事務系職員142名(同47名)が強制された。組合は「返上」「拒否」を繰り返し要求してきたが、学長は「裁定は全く意外であり、遺憾に思っている」といいながらも「予算措置がとられているから」と「対応処理」を評議会で決定するに至った。

夜勤看護婦のタクシー代支給

 一方、病院では、前年の195名増員の確認書にもとづき、「45年度においても65名の看護婦を増員する」「うち23名については4月1日に採用する」ことを約束させ、実質的に100名以上の看護婦採用を実現した。また夜勤者全員に1人1台のタクシー代を補助するため100万円の予算を実現し、ICU病棟の強制転科について白紙撤回と再検討を病院長に約束させるなどの前進をかちとった。

図書館の3.31半日休暇闘争

 43年12月に発足した定員外職員連絡会は6月に540名を対象にし、240名の集約を得るアンケートを行い、要求闘争の具体的資料をえた。年末年始休暇の有給化は、病院であらたにかちとるなど多くの部局で広がった。又、図書館では3.31半日休暇闘争の批准成功を背景に(1)当局は当日出勤した定員外に賃金を支払う、(2)当局は、概算要求などの際にその都度定員化を要求していく、という二点で妥結するなど、3.31首切り反対闘争は全学的に一歩前進をみた。

「全大協」の設立

 本格賃闘を指向した組織体制の整備も前進した。

 日教組は大学の組合の発展のために、全国の大学教組を日教組大学部に直接加盟とし、その執行体制を強化する一方、日教組大学部を人事院登録し、文部大臣を含む文部省との国公法にもとづく交渉権を確立することを決定した。その方針にもとづき、人事院登録を完了している大学教組により、「全国国立大学教職員組合」(全大教)の設立大会が5月15日、東京でおこなわれた。

 また日教組登録人員増も全国的にすすめられ、東北大も5月の臨時大会において230名から600名に登録増加することが承認・決定され、大学部専従役員が7名から9名へ増員された。又、県労評、地区労、国公への登録も500名から800名に増加された。なお、三期目をむかえた佐藤郁生委員長(現、仙台市会議員)が、69年11月より70年6月まで在籍専従の任に就いた。

京都府知事選の勝利

 69年12月の総選挙以降、創価学会、公明党による言論出版の妨害問題は大きな社会問題となり、宮城においても佐藤委員長を含む16名の呼びかけで、5月18日に「言論の自由を守る会」が植村左内(評論家)を招いて結成された。

 4月には全国民注目の中で、京都府知事選挙が闘われ、社・共を中心とする「明るい会」は、自民、民社、公明の三党連合を打破って6度目の蜷川府政を実現した。組合も2万1000円のカンパと代表派遣などにとりくみ、70年代の闘いへと勇気と確信を築いていった。

1970年代闘争への出帆

 アメリカは4月30日、カンボジアに侵略を開始、5.8安保実行委抗議集会や、5.12東北大学平和と民主教育を守る連絡会議主催抗議集会が開催された。

 そして、安保条約の固定期限が終了する6月23日、午後4時40分からひらかれた「安保条約の廃棄を要求する6.23東北大学教職員1000名集会」には、安保闘争を上回る約700名の組合員が参加し、市中デモを行って、安保県民会議の統一県集会に合流した。

 23日以降は、いつでも一方の国が条約の廃棄を決定し通告すれば、1年後には条約は自動的に解消されるという、新しい展望をもった闘いの第一歩であり、70年代闘争の具体的出発点でもあった。


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