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東北大学職員組合50年史 第1部

転換(1975〜80年)

 75年4月30日、サイゴンの南ベトナム大統領官邸に南ベトナム解放民族戦線の旗が翻った。アメリカの帝国主義的侵略との闘いに、ベトナム人民が完全に勝利した瞬間であった。日米の支配層は、74年のウォーターゲート事件によるニクソンの失脚、76年のロッキード事件での田中角栄元首相の逮捕などにみられるように、その腐敗をますます強めていた。こうしたなかで、国民の生活は不況とインフレの同時進行のもとで危機を深めていった。

 しかしこの時、国民の生活を防衛し、さらに豊かにすることを目指すべき労働運動のなかにも深刻な事態が進行していた。労働戦線の右翼的再編である。すなわち、日本社会党が反共路線へ進み始めたことと歩調を合わせ、総評・県評の弱体化、労使協調路線化が進行し、真に国民の生活に責任を負うことができなくなったのである。

 こうした流れのなかで、あるべき労働運動の構築に向けて路線の転換がはかられ、全国各地で統一労組懇が結成された。宮城県統一労組懇も国民とともに闘う春闘を展開した。東北大学職員組合もその一員として、国民生活の改善と大学の民主化を目指して活動した。

第1章 国民の生活改善のたたかい

1.1 国民生活の危機の深まりと労働運動の転換

1.1.1 不況とインフレ(その世界的な背景)

 75年は、「石油ショック」以来の世界的な不況とインフレの同時進行が引き続き、さらにアメリカは大幅な輸入超過による貿易赤字および国家予算におけるベトナム戦費の増大がもたらした財政赤字という「双子の赤字」の解消に迫られていた。このために、アメリカは「ドルと金の交換制停止」という措置を強行することによって切り抜けようとしていた。加えて、ニクソン大統領による盗聴事件が発覚し、74年8月にニクソン大統領が辞任に追い込まれたことも、アメリカの威信を大きく失墜させるものとなった。その影響は長期間、日本を含む全世界に及んだ。この危機の打開のために先進資本主義主要5ヵ国の首脳が集まって、75年7月に開かれたのがいわゆる第1回サミットであった。

 急激な原油価格の高騰は、物価の急上昇と物不足を引き起こし、さらに、職場における経費節減、人員整理など「合理化」が強行され生活苦が増大した。この背景には「日米安保条約」のもとで、日本のエネルギー、食料、資源の確保を全面的にアメリカに依存した「高度経済成長政策」の破綻があった。すなわち、「日本列島改造」の看板を掲げて72年7月に登場した田中内閣が、高物価に依存した「高度経済成長政策」を取り続けてきたが、アメリカのドルの崩壊の影響によってそれが破綻し、74年の参議院議員選挙で敗退した。さらに、田中首相の汚職・金脈の疑惑が暴露され、田中内閣は総辞職に追い込まれた。

 日本経済は75年11.8%、76年9.3%、77年8.1%と高い物価上昇率が続き、労働者・国民の生活を苦しめ、78年の物価上昇率は3.8%と比較的落ち着いたが、それ以降も不況が続いた。この不況とインフレの同時進行のなかで、「総需要抑制政策」がとられ、企業内での「首切り・合理化」や、中小企業の倒産が相次ぎ、加えて国・地方自治体における総人件費削減の攻撃が進んだ。このような政治・経済の状況から国立大学の教育・研究予算が大幅に縮小され、図書購入の停止や研究に支障が出るほどの光熱水費の節減を余儀なくされ、定員外職員を解雇し、あるいはパート職員へ移行することなどで切り抜ける状況が頻発した。また、教職員の勤務条件の悪化をもたらし、安全管理がおろそかにされ、放射線被爆、化学物質の爆発、ウィルス感染事故などが、この時期に急増した。

1.1.2 ロッキード事件

 76年2月、アメリカ上院外交委員会および多国籍企業小委員会で「ロッキード事件」が明るみに出た。6月に贈賄側の丸紅檜山前会長と全日空若狭会長が逮捕され、7月に、収賄容疑で田中角栄元首相、8月に橋本登美三郎元運輸大臣と佐藤孝行元運輸政務次官が相次いで逮捕され、首相を含めた政界・官僚・民間総ぐるみの贈収賄事件に発展した。76年12月、自民党は「クリーン」三木内閣のもとで総選挙を実施したが、結党以来はじめて、公認候補だけでは過半数に達しない大敗を喫した。

 一連の「ロッキード事件」が発覚し、総理大臣も含めた底知れぬ汚職に国民の怒りが爆発し、連日抗議行動が展開された。職組は安保破棄諸要求貫徹宮城県実行委員会が主催する2回にわたる中央抗議行動、公務員共闘昼休みデモ、県労評、社会・共産・公明党の統一行動等に参加した。またロッキード事件究明の署名活動に取り組み、東北大学平和と民主教育をまもる連絡会議主催の市民公開講座「ロッキード問題を考える」には110名が参加し、運動の広がりに大きく貢献した。7月24日、田中元首相逮捕の当日、職組は疑獄糾弾の独自のデモを行った。

 このような重大な犯罪を起した田中角栄は、その後も金脈にものをいわせて、自民党の最大派閥を維持し、金権・腐敗の体質を存続させたが、福田内閣に続く大平内閣のもとで行われた79年総選挙において自民党は再び大敗した。しかし、80年には自民党内の派閥抗争によるいわゆる「ハプニング解散」により、再び総選挙が行われ、選挙中に急死した大平首相への同情票もあって過半数55%を獲得し、新たに鈴木善幸内閣が誕生した。そして、翌年の81年3月に「第二次臨時行政調査会」(会長土光敏夫)が発足した。

1.1.3 社会党の右傾化

 一方、野党の代表とみられていた社会党は、60年安保闘争後、「構造改革」路線などの右派勢力が台頭し、左右の対立のなかで、次第に右傾化を強めていった。衆議院選挙をはじめ各種選挙では得票数・率の低落傾向が明確になりつつあった。そのようななかで67年には共産党との共同推薦で美濃部革新都知事が誕生し、社・共が共同の目標をもって闘うことの重要性が示された。

 71年に全国で4人の革新知事が、75年には10名の革新知事が誕生して、住民本位の地方政治を実施してきた。しかし、76年に社会党の江田副委員長、公明党矢野書記長、民社党佐々木書記長らによって「新しい日本の会」が結成され、この動きは社会党の革新分断・反共路線への転換の契機となった。77年社会党を離党した江田は、菅らと「社会市民連合」を結成した。一方、民社党と公明党の選挙協力・提携が進み、自民党に一層接近するようになった。社会党の右傾化は、79年の一斉地方選挙における東京都知事選挙で社共推薦の太田候補が、自公民推薦の鈴木候補に破れ、12年続いた革新都政に終止符を打つ伏線となった。さらに、大阪でも共産党推薦の現職黒田知事が落選し、革新自治体の大きな後退を余儀なくされた。この状況のなかで反共主義を一層強めた社会党は、80年1月、公明党とともに共産党排除の政権構想を合意、その右傾化を決定的なものとした。

1.1.4 ベトナム人民勝利

 ベトナムは、40年代からフランスの植民地であったが、第二次世界大戦中は日本の占領下にあった。戦後、再びフランスの統治のもとにあったが、ホーチーミンを中心とする独立運動が起こり、54年ディエンビエンフーの戦いの勝利によってジュネーブ協定が結ばれ、フランスはベトナムから撤退した。しかし、アメリカは協定の調印を拒否し、50年代後半に本格的にベトナムに介入し、侵略戦争を拡大した。その後、アメリカはべトナム人民の激しい抵抗と世界の侵略戦争反対の抗議を無視して、最高時54万人にも達する兵員と莫大な戦費を投入した。しかし、ベトナム人民の抵抗と世界的な抗議行動によって、73年1月に「パリ協定」を結び、ベトナムからの全面撤退を余儀なくされた。75年4月30日サイゴンの南ベトナム大統領官邸が陥落し、ベトナム人民は完全な勝利を手にした。この間の日本におけるベトナム侵略戦争反対の闘いや職組の取組みについては、「東北大学職員組合二十五年のあゆみ」に明らかにされている。

1.2 労働戦線の再編

1.2.1 宮城県統一労組懇の結成

 60年の安保闘争を経験した日本の労働運動は、経済的な要求に加えて政治的変革を求める方向を強めていった。60年代後半から70年代の前半にかけて、賃金引上げなど労働条件の改善に運動の力を注ぐとともに、革新自治体の誕生に大きな力を発揮し、前述のような成果を上げることに成功した。日米の支配層はこの動きに強い危機感を抱き、労働組合運動の分断と右翼的潮流の育成・強化に着手した。

 その具体的な動きは民間大手産業別組合である鉄鋼労連・電機労連・自動車総連などIMF−JC(国際金属労連)加盟組合、全電通労組、および同盟などを中心に進められた労使協調・特定政党排除の方針である。この路線は春闘における賃上げ闘争や「合理化」反対の闘争および政治の革新を求める労働組合運動に消極的な姿勢となって表面化し、ナショナルセンターとしての総評、ローカルセンターとしての県評の弱体化につながっていった。

 この動きに対抗して、職組をはじめとする「資本・政党からの独立、政党支持自由の原則」を掲げる労働組合は、統一戦線促進労働組合準備会を結成し、「組合員が主人公」の立場からの要求実現を目指す運動を開始した。この運動の到達点として76年3月、宮城県内の統一戦線結成に積極的な方針を掲げている組合によって「宮城県統一戦線促進労働組合懇談会」(略称宮城県統一労組懇)が結成された。結成総会では、ロッキード疑獄徹底究明、国政革新の統一戦線結成を求める声明を発表し、当面の諸要求の取組みについて決定した。宮城県統一労組懇は89年の宮城県労連結成まで、真に労働者の権利と生活をまもり、国民との統一のうえに国政革新を目指す労働組合の協力・共同の組織として大きな役割を果たした。この間、職組は統一労組懇の結成準備段階から世話人など役員を派遣し、運動の前進に大きな役割を果たした。

1.3 国民春闘

1.3.1 74年春闘総括と75年春闘での画期的方針樹立

74年春闘の総括

 74年春闘では史上最高の賃金引上げを獲得したが、その一方で行われた政府の日教組に対する大量弾圧に対して、総評は何ら具体的な抗議行動もとらずに74年春闘を妥結するという重大な問題を残した。

 75年3月、日教組臨時大会の春闘方針討議は、74年春闘で日教組がストライキ権奪還をスローガンにしてストライキ戦術をとり、結果として大量刑事弾圧をうけて闘争を中止したこと、および74年秋闘においても同様な問題点を含んでいたことについて討議した。討議の結果は次のように集約された。

 74年春闘における4・11ストについて:(1)ストライキ戦術の積極的役割は論をまたないが、74年春闘時の4・11ストへの大量刑事弾圧のような政府権力の新たな反動攻勢のもとでは、権力による組合員間の分断や組合員と非組合員間の分断策動を許さない十分な配慮をしたうえで、教職員が大きく結集できる戦術をストライキを含めてとること。(2)東京・大阪・京都・埼玉をはじめいくつかの県教組から出されている「ストライキ一辺倒の戦術を排し、父母・国民との団結、教職員の団結を充分考慮し、スト戦術を配置する際も保護要員の配置など、教育労働者の特性をふまえた配慮をすること」などの意見は正当である。日教組中央執行委員会が大会・戦術会議などにおいてこれらの意見をすべて切り捨てた組合運営をしたことには重大な問題があること。(3)日教組幹部の「強力な戦術=ストライキ時間の長さによって決まる」という考えは、教育・研究の現場や現在の組織実態、闘争参加状況をふまえたものではなく、政府・権力のワナに陥るものであること。(4)日教組に対する4・11スト不当弾圧が強行されているにもかかわらず、春闘共闘中央が政府との交渉で74年春闘の収拾・妥結をしたのは、日本の労働運動のみならず世界の労働運動史上に類例のない労働者階級連帯の欠如という汚点を残したこと。

 74年春闘の総括は、その後の労働運動のあり方に大きな足跡を残す画期的なものであった。この成果に基づいて闘われたその年の秋闘では、いくつかの支部で構成員を上回る署名を集めることができるなど、署名運動・中央動員行動で大きな成果を上げることができた。また、広範な国民との連帯、統一戦線結成を目指した闘いを通して、独占資本・自民党政府を追及することが不可欠であることが確認された。さらに、75年春闘戦術方針においてもこの方針を中心にすえ、組合員の団結、国民との連帯を強化する戦術を、組合員の家庭訪問・署名運動・白書作りおよび地域住民への訴えなどに具体化した。

75年春闘の特徴

 3月、日教組大学部総会が開かれ、「75年春闘では、公務員共闘の一環としてストライキを中心にして取り組む」という日教組原案に対して、東北大職組は「ストライキを含む多様な戦術で取り組む」という修正案を提出した。これは大学部総会で圧倒的多数で可決されたが、日教組臨時大会では、原案が賛成多数で、修正案は否決された。これに対して、職組は機関会議を経て、闘いの山場における戦術として、多数の組合員を結集するために「支部の状況に照らした行動形態をとる」ことを決定した。

 4月、日教組は闘争方針に対する大学部総会と日教組大会との意見対立を調整するために、各県代表者会議(大学部は1つの県教組として参加)を召集した。さきの総会の方針を再確認して臨んだ大学部は、執行部提案の5月初旬の統一行動に対して、「それぞれの大学職組が、全国的情勢にあわせ、2時間以内を目安とするストライキを含む独自の戦術を決定する」という態度をとった。このような経過をうけて、職組はストライキ批准投票を行ったが、31.1%で不成立であった。日教組は「批准成立の県は既定方針通りのストライキを、不成立県は早朝29分の戦術」を発動した。職組は4月30日中央委員会で各支部の自主的な討議に基づいた戦術をとることを決定した。そして、第一波は勤務時間終了前1時間とし、第二波は早朝勤務時間1時間カットの指令を日教組に要請するという方針で日教組の戦術会議に臨んだ。しかし、会議では山場の統一行動を5月9〜10日に設定し、「不成立県(大学教組含む)は早朝29分の戦術発動」の既定方針を変えなかった。このため、職組は5月の中央委員会で、組合員の総意を尊重する立場から、「統一行動は支部大会またはそれに準じる決議機関の意思を尊重し、行動は本部執行部の責任で行う」ことを決定した。

 しかし、日教組は9日の統一行動直前に、要求の中心的課題であった賃金の大幅引上げについて「私鉄の中央労働委員会、公労協の公共企業体等労働委員会の斡旋・調停を見守る」として中止指令を出した。職組執行委員会は、「日教組の賃上げの見通しの甘さ」および文部省交渉において大学教職員の要求に関する交渉が不十分であったことを日教組に指摘したうえで、統一行動を中止した。75年春闘は組合員の団結と全国一律の最低賃金制・国民年金・雇用保障・独禁法改正などの課題で国民との共闘を目指した日本の労働運動史上はじめての闘いであった。以来、この立場は「国民春闘」として定着し、「スト万能論」を排除し、国民世論への訴え、国民との統一行動を重視して取り組まれた。そして日教組にみられるような、「スト万能論」とその裏返しとしての機械的な「教師=労働者」論は、広い国民の支持を得られないものであることが次第に明らかになっていった。

1.3.2 1976年〜1979年の春闘

76年国民春闘

 引き続く経済危機は国際的な不況およびインフレーションを引き起こし、物価値上げと賃金抑制に加えて一時帰休や残業代カットが労働者に課せられ、76年3月の完全失業者数は政府統計で122万人に達した。職組は75年秋に、全組合員対象の生活実態要求調査を行い、過半数の743名を集約したが、その数字にも賃金改善要求が色濃く現われていた。

 職組は春闘山場における二波にわたる公務員共闘の統一行動として勤務時間の29分カット戦術で臨み、第一波は全学集会、第二波は支部集会で闘い、リボンおよび腕章闘争、春闘共闘委員会の二千万署名「インフレ・国民総負担増と失業反対など国民生活をまもる統一請願」運動の推進などを具体的な内容とすることを決定した。第一波は383名が参加して全学集会を行ったが、第二波は公務員共闘のストライキ中止指令によって中止した。春闘共闘委員会の二千万署名は全支部で取り組まれ、署名数2,436名に達し、保育所支部はじめ多くの支部で目標を突破した。

 76年の人事院勧告は平均6.94%の引上げと同時に、一時金の0.2ヶ月の削減を含む低額なものであった。職組は各県大学職組や国公共闘とともに7月上旬以来、上京請願・デモ、文部省・人事院交渉への代表団派遣を続けた。また独自に「手当て削減反対」などのハガキ要請も行ったが、政府・自民党の民間不況・財源難を口実とする壁を打ち破れなかった。

77年国民春闘

 77年国民春闘は、国民生活の一層の苦しみの増大と、前年の76年2月、アメリカ上院外交委員会で明らかにされたロッキード疑獄事件によって自民党の金権腐敗政治への国民的批判が強まり、総選挙で自民党が大敗し単独支配体制が崩れる政治情勢のもとで闘われた。

 職組の生活実態調査では3〜5万円の賃金引上げ要求であったが、公務員共闘・日教組大学部との協議の結果、3万円を要求額として決定した。

 日教組は自主戦術を要求する多くの県教組・大学部の意見を無視し、ストライキ優先の画一的な戦術を強要した。その結果、職組のスト批准投票は投票率80%に対して批准率23.4%であり、組合員の厳しい批判が日教組の戦術方針に対して下された。全国的にも批准成立は13県教組・9高教組にとどまった。

 職組は定員外職員の定員化と独自要求による学長交渉をもつとともに、最賃制全県統一行動と大学部定員問題統一行動で29分カットの全学集会を開いて要求実現の行動を行った。同時に、国民に職組の要求を訴える活動を重視し、大学危機打開、最賃制、健保問題に対する組合の主張を訴えた3,000枚のチラシを地域と街頭で配布した。また、春闘プレートをほぼ全組合員が着用して団結を誇示し、各支部が看板を作り、集会では情勢報告を支部役員が行うなど、主体性をもった取組みがなされた。さらに、学習討論集会、独自ビラの作成配布、構内デモなど支部の創意ある取組みが行われた。

 公務員共闘の対政府交渉は4月20、22日の統一闘争を背景に進められる予定であったが、「民間・三公社五現業と同程度の改定に努力する」という回答に一定の前進が得られたとして、ストライキは中止された。

 この年の人事院勧告は12,005円(6.92%)であり、昇格昇給を加えれば、ほば消費者物価上昇率に見合う賃上げ率であり、情勢の厳しさからみれば77年国民春闘の成果として評価できるものであった。また、減税6,500億円(本人6,000円、被扶養者3,000円)や老齢福祉年金に628億円の積増しを実現させたことなどの成果が得られた。

 政府は、9月の臨時国会に人事院勧告の一般給与法案に主任手当の制度化を盛り込んだ第三次教員給与法案を提出した。職場に差別を持ち込む主任手当に反対する日教組は、33の県で午後3時行動開始による全国統一行動を行った。職組は大学部との申合せにより、昼休みから29分食込みの全学集会を行い、280名が参加した。

 その後、臨時国会の会期切れによって「国鉄」「健保」法案とともに「給与」法案は廃案となったが、政府は共産党を除く野党との合議により、引き続き召集した臨時国会で「国鉄」「健保」法案を成立させ、続く12月通常国会に主任手当とからめた「給与」法案を再上程した。日教組は主任手当と一般給与法の分離審議を要求し、12月20日全国統一闘争を組織した。職組は昼休みに時間外集会を開催し、政府に対して要求電報を打電した。しかし政府は分離審議の要求を拒否し、翌21日に「給与法」を成立させた。

78年国民春闘

 78年国民春闘は、円高不況にみられる経済の構造的危機のもとで、政府・財界による賃金抑制攻撃が一段と強められるなかで闘いが進められた。とくに、年金・賃金などの公務員労働者に対する攻撃が強まり、民間大企業労働組合の右翼的幹部が賃上げ抑制と労使協調を公然と主張する危険な動きが明らかになる情勢のもとで闘われた。

 大学部は、78年国民春闘を賃金引上げ要求および減税・年金・医療などの国民的課題、そして大学教職員の定員・予算要求を結合して闘うことを確認した。この方針に基づいて職組は中央委員会で、「大幅賃上げによって不況を打開する」とする公務員共闘と大学部の要求案を基礎に、学習活動を強化する方針を決定した。

 一方日教組は、4月下旬の集中決戦期に二波にわたる統ーストライキを官民総がかりで闘うことを決めた。この方針は日教組のこれまでの画一的な闘争戦術とは異なり、国民の理解と支持を得ることに重点を移し、多くの県教組が一致した戦術を団結して行使しようとしたものであった。また、この数年間の日教組内における議論を前向きに反映したものと評価できるものであった。大学部は各大学の実情を勘案して、午後1時間のストライキを決定した。その結果、職組の批准投票では投票率88%、批准率61%でスト権が確立された。第一波は4月25日に行われ、14大学教組が午後1時間の統一ストライキを行った。職組は支部ごとの集会を開催し、創意工夫を発揮して要求実現を求める行動を行った。その後、公務員共闘は諸要求に対する政府回答と、人事院の「官民格差が5%以内でも勧告する」との回答を得たことを評価して、第二波のストライキを中止した。

 この間、職組は定員外職員の待遇改善と職組独自要求の実現を求めて学長交渉を行い、また、婦人部の独自要求に基づく学長交渉が別個にもたれた。さらに、「大学をめぐる教育問題を語る地域ごと対話集会」を高教組・宮教組・東北工大職組の協力と八木山地区連合町内会の協賛を得て八木山地区で開催した。これは「国民のための大学づくり」を地域住民との対話を通じて具体化し、大学の組合と国民との連帯を独自な形で追求しようとした、これまでに例のない試みであった。また、78年春闘では県国公共闘として市民に対する行政相談活動、また「生活防衛・経済危機打開宮城県総行動」に取り組み、統一労組懇をはじめとする多くの民主的諸団体の協力によって成功した。

 78年の人事院勧告は、組合の要求を完全に無視した3.84%、7,269円の引上げ、期末手当0.1ヵ月カットであり、人事院が公務員の労働基本権の「代償機関」としての機能を失ったことを示した。職組はこの勧告を厳しく批判し、秋期年末闘争と結合して、早期支給・期末手当カット撤回を目指す取組みを行った。日教組は秋期年末闘争の中心的課題に定数問題をすえ、国民の切実な教育要求に応える運動を進めるととともに、12月15日の重要時期にストライキを設定した。職組は勤務時間29分カットの集会に取り組み、同時に学長交渉を行った。また、大学部の中央行動に代表を送り、文部省および人事院交渉で大学・高専教員賃金を改善する回答を引き出した。

79年国民春闘

 79年国民春闘は、賃上げ抑制と合理化による「減量経営」によって企業業績が好転に向かっているにもかかわらず、労働者の雇用不安がますます深刻化するなかで進められた。大学部の生活実態調査から職組は加重平均23,400円の賃金要求、また物価値上げ反対、減税、教育・医療改革を制度要求とすることを決定した。

 春闘共闘会議は春闘前段において国民的課題である制度・政策要求の実現を迫り、4月下旬に官民総がかりの賃金闘争を設定するとともに、これらと統一地方選挙とを結び付けて闘う方針を決めた。一方、日教組と公務員共闘はストライキを中心とする統一行動によって政府から有額回答を勝ち取るとともに、官民総がかりで闘うことによって賃金水準の向上をはかることを確認した。二波にわたるストライキを設定したが、ストライキ直前の総理府総務長官、人事院総裁との交渉において「政府回答」および「人事院確認」をとることに成功し、ストライキの中止を決定した。大学部は28大学高専が1時間のストライキをすでに準備しており、前年春闘にくらべて前進がみられた。

 職組は定員外職員問題を中心とした全学集会と学長交渉を進めながら、公務員共闘・日教組大学部の統一要求である平均11%、20,000円以上の賃上げおよび「定員」「年金」「定年制」「教育予算」などの独自要求を掲げ、二波にわたるストライキ戦術とその具体化を決定していた。ストライキは58%で批准し、4月25日に各支部の独自集会形式でストライキを行った。

 公務員共闘は4月25日の統一行動中止の根拠として、民間・三公社五現業と同程度の賃上げ(政府回答)と官民較差5%以下でも勧告(人事院総裁確認)を評価できるものとして上げた。この妥結内容は春闘要求からみれば不十分であったが、処分の実損回復について話合いを続けるうえで今後の足がかりとなり、さらに、週休2日制を79年人事院勧告で本格実施する約束を取り付けたこと、および定年制については「公務員制度の根幹にかかわるので慎重な検討」を確認させる一定の成果を上げたからであった。

 79年の人事院勧告はこれまでの最低額(3.7%、7,373円)であり、しかも、高齢者の昇給停止を設け、俸給の調整額を部分的に定額に切りかえて総源資を縮小し、さらに定年制導入を認めるなど、政府・財界の意向をうけたものであった。とりわけ高齢者の昇給停止、定年制導入は年金制度の改悪につながる構造的かつ全公務員に対する挑戦であった。しかし、4週5休の週休2日制導入の勧告は、週休2日制実現への突破口となり、期末手当0.1ヵ月削減の動きを阻止したことと合わせて運動の成果であった。

 総選挙に敗北した政府・自民党は一般消費税の導入を断念する一方で、赤字財政を口実にして人事院勧告6分の1カットの動きを強めてきた。これに対して公務員共闘は、「人勧値切り」を閣議決定した時点でストライキを含む統一闘争を組むことを提起した。日教組大学部も二波にわたる勤務時間外の統一行動を決定し、各大学職組に指示した。

 職組は大学教職員の要求署名運動に取り組むとともに、ハガキ行動・抗議電報および中央要請行動に参加した。さらに、片平全学集会・学長交渉・事務局交渉などを行った。こうした闘いの結果、12月の通常国会で実施時期遅延による値切りを断念させ、一部の指定職を除き勧告を確定させた。

1.3.3 宮城県沖地震

 78年6月12日午後5時10分ごろ、宮城県は震度5の強い地震に襲われた。この強震によって死者27名、負傷者1,227名が発生し、仙台東部の埋立地など地盤が軟弱な地域で多くの建物が倒壊・破損し、多数の組合員の家屋にも被害が出た。さらに、東北大学では理学部・工学部・医学部臨床研究棟で有機溶剤などが流出し、それに起因する火事が発生した。多くの建物に亀裂や段差が生じ、実験機器など研究設備に被害が生じた。

 職組は緊急に学長交渉(6月16日)を行い、被害実態の把握とともに緊急に文部省に財政的な支援などを要請するように申し入れた。また、大学部に対して、全国的な支援と日教済から組合員に対する災害見舞金等の支給を要請した。これに応えて大学部は、20日調査団を編成し被害の調査を行った。28日共産党国会議員団による調査が行われ、被害実態の調査と大学当局および職組からの要望を聴取し、関係機関に対処を要請した。全学的な被害総額は、建物損壊修復や機器・装置の廃棄・修復など10億3千万円に達した。日教済からは組合員に見舞金が支給された。また政府は、被害の大蔵査定である約8億円に基づく復旧費を補正予算として計上したが、その額は完全な復旧には不十分なものであった。


第2章 生活の改善と大学の民主化をめざして

2.1 働きやすい職場を

2.1.1 技術職員問題

 78年に国立大学の技術系技官を「専門官」として処遇する「専門官制」の導入が浮上した。2月に国大協専門官制度小委員会は同委員会構成メンバーが所属する10大学に構想を提示し、アンケート調査を実施した。その後、対象を全国87大学に拡大し、調査結果を添付した「研究技術専門官制新設要望書」(試案)を文部省と人事院に提出した。しかし、この「試案」は疑問点や問題点に「但し書き」をつけただけのものであり、検討の余地を多く残したものであった。職組は執行委員会に研究室系技官対策委員会を設置し、「試案」の検討を本格化させた。78年2月、学長会見の席でアンケートの問題点を指摘し、検討経過を随時公開していくことを求めた。また、職場懇談会で検討を加え、さらに農学部・工学部・科研および金研支部など支部段階で活発な議論が展開された。とくに、金研支部では国大協アンケート内容をパンフレットにして討議資料とするなど、積極的な取組みがみられた。

 79年3月に開かれた日教組大学部教員・技術職員賃金問題代表者会議では、当面は技術職員への「教特法」適用を追求しながら、専門官構想には対案が必要との意見が多く出された。この検討をうけて、大学部は「技術職員の待遇改善と地位向上をめざして」の見解を発表した。80年6月、文部省は専門官構想を念頭においた、各大学の学部の定員配置、教職員の経歴・職務内容・任用状況などの広範囲な調査を行った。東北大学でも各部局でこの調査が行われたが、職組は支部代表者会議で意見交換するにとどめた。

 昇給昇格問題では、行(二)職員の包括承認基準改正について中央・地方段階での交渉に国公労連と大学部が取り組んだ。文部省交渉において(1)「部下数」を減らす努力をする、(2)労務(乙)二等級昇格は暫定定数によっても行うように努力する、(3)定数拡大に努力するなどの回答を得て一定の前進がみられた。

 80年の春闘の人事院東北事務局交渉では、労務(乙)二等級昇格実現、行(一)主任の弾力的運用、部下数の緩和などの前進がみられた。また、各職種の定数配分とその基準を明らかにさせ、その後、行(一)格付けの技術職員に対する三等級の暫定定数の実現に役立った。

2.1.2 定員外職員を定員化する闘い

定員外職員問題の共通理解の定着を目指して

 63年、それまで東北大学で働いていた非常勤職員が一斉に定員化されて以降、再び非常勤職員の数が増大し、67年にはその存在が改めて問題となってきた。当初は職務内容、勤務形態ともに臨時職員としての採用であったが、次第に定員内の正規職員と同質の業務内容を非常勤職員が担うようになってきた。職組はこの実態が総定員法による定員数が大学の実態に沿っていないことに起因するものであると分析し、このような非常勤職員を定員外職員と呼称し、労働条件を定員内職員に近づけること、およびその定員化を求める運動に取り組んだ。

 73年の秋期闘争で組織した定員外職員独自要求検討委員会がまとめた「定員外職員に関する緊急提案」をもって学長交渉が行われた。この交渉で合意した「定員外職員の待遇についての確認事項案」を、全学的に確認できる最低の基準、すなわち「学内共通理解」として位置付け、その全学的な定着を目指す運動が開始された。

 75年には2月、3月および6月の3回にわたって「定員外職員に関する緊急提案」をベースにした学長交渉を行った。職組の要求は以下の4点であった。

  1. 「共通理解」の文章化を急ぐこと。
  2. 定員外職員の待遇の切下げ、不当首切りをしないこと。
  3. (定員外職員の)共通経費部門の超勤費を110時間予算化すること。
  4. 定員外職員の共済利用を認めること。

 定員外職員の単年度雇用を実態化するために装われた「1日首切り」の日に当る3月31日に、「定員外職員の不当首切り反対、定員化を目指す決起集会」を医学部で開催した。集会には全学から35名の定員外職員が参加し、「1日首切り」への抗議、全学へのアピールと文部大臣あて抗議文を採択した。

 労働条件改善に向けた具体的な進展が、農学部における産休の全額保障および工学部と農学部での5月期末手当(0.3ケ月)の30%カット分の補填となって実現した。これら具体的な成果は無権利状態におかれていた多くの定員外職員に勇気を与え、37名の定員外職員を組合に迎え入れる成果となった。同年の秋期闘争における中央交渉では各関係省庁・国大協・国会議員への要請行動に参加し、さらに定員外職員への「共済適用」を大学部から関係方面に働きかける一方、学長交渉においても実現を要請した。

 「共通理解」を普及させることと、問題解決のための提起を含めた「定員外職員への訴え」を発行して、全学の定員外職員に配布し、闘いへの参加を訴えた。

定員外職員の闘いの高揚

 76年春闘には公務員共闘の統一要求として定員外職員の待遇改善が盛り込まれ、大学部の文部省交渉でその具体的な検討が約束された。3月31日「一日首切り」には例年通り、昼休みに全学集会をもち、学長に抗議文を手渡した。また、骨折入院した図書館定員外職員の4月1日発令を行わないという暴挙に対し、数回の館長交渉・学長交渉が行われ、4月16日付であったが発令となり、解雇を防ぐことができた。

 職組は定員外職員の定員化を求める概算予算要求に取り組み、5月の学長交渉で第一次分を一覧表として提出した。さらに、庄司幸助議員(共産)が附属病院病理部等の定員外職員の実態を衆議院決算委員会で取り上げた。これは国立大学における定員外職員問題をはじめて国会で取り上げたものであった。文部大臣は「ご指摘の東北大病院病理部はどうしても定員が必要な実態にあるので、大学の計画にあわせて定員増を行う」と答弁した。それに先立って病院長は、「昭和51年度(76年度)は別枠要求しているので、もし予算がつかなければ52年度要求では第一位で行う」と発言しており、定員化が確実と思われた。事実、病理部は77年度に定員外職員の定員化予算を概算要求の上位にランクしたが、予算要求は採択されなかった。

 76年10月から全国的に試行が開始された週休二日制では、文部省通達には定員外職員が含まれていず適用外であった。東北大学では学長の「各部局で判断」とする見解が出され、全部局で定員外職員が加えられた試行となった。

 77年、大学事務局は3名の会計系職員の欠員を学内措置で定員外職員から採用した。これは定員化が困難であった定員外職員の定員化に一定の方向を見出したものであった。しかし、その採用手続きは公正さを欠き、職組の申入れによって、今後は公募で行うことが確認された。

 この年、定員外対策委員会は青葉山・川内・雨宮の各地区で定員外職員の集会を開き、そのまとめを定員化推進の要望書として学長に提出した。3月31日には全国の大学職組が定員化要求で統一行動を行い、職組も取り組んだ。5月、中央交渉において東北大の定員外職員の実態(白書)を提出して、その解決を文部省に要求した。

 医学部で定員外職員の給与の支給日が5日から17日に繰り下げられた。これは給与支給日の変更に関して「該当者の無記名アンケートによって全員の賛成が得られたとき」をその実施条件とするとする組合の申入れに反するものであり、職組は強く抗議しその撤回を申し入れた。また、文科系支部の定員外職員に対して産休が3月31日にかかったことを理由に再雇用発令しないとする事件があり、職組との交渉で4月1日付の辞令を交付させた。

 図書館支部では定員外職員の月24日(勤務相当分給料)保障のため、超勤費の年間108時間獲得要求を掲げ、共通経費委員会への予算獲得署名に取り組んだ。しかし、予算決定は前年と同じ年間90時間であったが、学長交渉において全学調査のうえ前向きに考えるという意向が示された。12月の学長交渉で職組は「定員外職員の協議採用」を取り上げた。これは総定員法のもとでの教職員大幅増員要求の一環として「定員外職員」問題を位置付けて、「定員外職員の協議採用」によって定員化をはかるものであり、これは東北大学では76年以来慣行的に行われてきた。77年になって、このルールを無視する事態が生じていることを重視した職組は学長交渉においてこの点を指摘したが、事務局人事課は「従来通りである」と強弁した。このため職組は実態調査を行い、78年川渡で開催された職懇に定員外職員問題対策委員会による「定員外職員の定員化をめぐる諸問題と組合の提案」と「当面の実現をめざす目標と運動の重点」の2つの調査のまとめを作成し、討議を行った。実態調査では、勤続年数7年以上は約4割、扶養手当受給者は約1割、頭打ち該当者は約3割ということが明らかになった。また「提案」は今までの職場の議論をふまえて新たに作られたものであり、今後の運動の基調にもなる内容をもっていた。討議でまとめられた問題点は、「協議採用ルール」の無視、「一括選考試験」の実施、「試験」に付随した問題、職組との協議の不十分さの4点であった。これらは全学的「協議採用ルール」の確立へ向けた具体案となり、文章化のうえ、3月の学長交渉に提出され、4月の学長交渉で議論された。この席で、事務局人事課はこれまでのやり方を変更し、「協議採用」を76年暮より、行(一)については試験を、行(二)については面接試験を人事課で行うようになったとの回答があった。職組は事務当局の「変更」を重要視し、早急に部局長会議で検討することを学長に要請し、日教組統一行動において「長期的定員外職員の定員化の道を切り開き、定員外職員の緊急三要求を断固たたかい取る決議」を採択した。

 川渡で開かれた職懇で議論された「運動の重点」は、定員外職員の実態、とくに勤続年数の長期化・高齢化が進むことを重くみて、「給与の頭打ちの解消」「扶養手当相当分の支給」「年休20日の保障」の3つを緊急要求として掲げた。引き続き「定員外職員の待遇改善を求める緊急署名」運動に取り組み、短期間の行動であったにもかかわらず253名の定員外職員の署名が集まった。図書館・保育所・工学部・金研・理学部・農学部など比較的定員外職員数が多い部局で全員、もしくはほぼ全員が署名に応じるなど画期的な成果であった。この署名は4月の学長交渉に提出され、部局長会議で検討することを学長に要請した。さらに12月の学長交渉でも職組による実態調査の結果が提出され、同様に部局長会議での検討を学長に要請した。

 79年の川渡職懇の討議を経て、全学定員外職員集会を開き、「給与の頭打ちの解消」「扶養手当相当分の支給」「協議採用ルールの確立」を緊急に解決を求める決議として採択した。この要求の支持を求めて全教職員に署名を訴える活動を繰り広げるとともに、3月30日の春闘要求全学集会において緊急重要要求として掲げた。集会後に開催された学長交渉において、その要求実現を迫ったが、学長は要求をほぼ全面拒否した。しかし、その後職組の粘り強い交渉の結果、4月17日の学長会見で、待遇改善について7月までに前向きの回答を出すとの回答を得た。その結果、金研で扶養手当相当分の支給、科研で超勤手当年120時間から141時間への引上げなど具体的な成果につながった。また、日教組大学部の文部省交渉では、「定員外職員の実態調査を分析し、問題点を整理し、計画的定員化も、念頭において検討する」と約束させた。

2.1.3 定員増と労働条件改善の闘い

 74年に始まった第三次定員削減について、政府は自衛隊、五現業を除く国家公務員を51年度(76年度)より3ヵ年で33%、約15,600人とすることを閣議決定した。各省別削減目標数の文部省への割当は、教官と医療職を除き全体で2,470名であり、東北大学には126名が割り当てられた。職組は学長交渉で割当返上と定員削減の中止を求めた。しかし、部局長会議では各部局の該当職員数の按分比例で削減、端数は第二次の関連で処理、五人委員会(教養部問題)とは別とするという方針を決定し、75年度より実施に踏み切った。しかも、政府は行政監理委員会の勧告で削減計画の第3年度目の目標を1割繰り上げて、4割・3割・3割であった年次計画を、4割・4割・2割とすることを決定し、その実施を各省庁に指示した。この行革路線の強化に対して、大学部は定員削減反対と教育予算増額要求とを結びつけ、定員増と教育予算の充実を内容とした「大学・高専教職員の重点要求」を政府・文部省に提出し、その実現を強く要求した。とくに、緊急性のある要求については「大学・高専教職員の生活をまもり、大学の教育・研究・医療を危機と荒廃から救うための緊急要求署名」としてまとめられ、職組では1,558名を集約した。この署名は、職組から32名が参加した中央行動で政府に提出され、参加者は中央総決起集会・街頭宣伝活動に参加し、国大協への会見・要求申入れを行うなど多彩な行動を展開した。職組は11月の学長交渉で「学長が自ら削減反対の上申をするように」と迫ったが、学長は「国大協を通じて行う」との回答に終始した。77年度予算概算要求決定時期に焦点を合わせた学長交渉では、図書館・教養部など10支部の定員増要求書を提出し、要求を概算要求に組み込むことを求めた。農研支部は独自の概算要求書を作り、所長に提出した。

 教育・研究に定員削減が及ぼす影響とその実態を明らかにすることを目的として、全国の大学職組で「白書」づくりに取り組んだ。職組理学部支部では「定員削減と理学部における教育研究条件の実態調査(昭和37〜50年)」を発表し、全学的「白書」づくりには74年7月にとりかかった。

2.1.4 大学病院支部の闘い

 74年に職組の強力な運動によって総婦長公選を制度化して以来、「婦長選考」のあり方について、職組病院支部代表が加わった検討小委員会で議論してきたが、75年に総婦長を委員長とする「婦長推薦委員会」をおき、単位職場の推薦を経て、病院長に婦長を推薦する要項が決定された。職組が強く主張してきた婦長の公選は実現できなかったが、この制度は現場の看護婦の意見を一定程度反映させるものとして評価できるものであった。

 この年は長町分院に附置される広南病院の赤字経営問題で、広南病院職員の待遇および退職金について病院長および学長交渉が数度にわたってもたれ、保育所の設置、退職金などで一定の前進をみた。また、附属病院と歯学部病院では暫定定員の枠で、附属病院で61名、歯学部病院で4名が定員化された。附属病院では看護助手の強制配転に反対しこれを撤回させた。

 76年、職組病院支部に病院当局から「これまでの一類看護料金から、特二類看護料金に移行したい」との意向が伝えられた。これは付添看護を前提として患者の入院料金を引き上げるもので、職組は国民福祉の切下げであるとして、この方針に反対を表明した。12月には「移行は組合・看護部・医師の三者の合意のもとでやる」との病院長の発言があったが、77年5月に看護部長・医事課長らが各病棟看護部に直接「説明」を行うなど、一気に移行を強行する動きをみせた。この背景には文部省の強い「指導」があったものと思われた。職組は患者・国民のための医療を目指す立場から、直ちに「組合の基本的考え方」を職組新聞号外として発行し、全職員・患者・家族に3,500枚配布した。同時に「特二類特別委員会」を設け、(1)「特二類」移行を行うことよりも、現行の基準看護のもとでも付添いなしの看護ができるようにすべきであること、(2)病棟患者の実態調査によると900名の入院患者に300名の付添いがいるという現実があり、付添いのいらない看護体制が必須であること、(3)看護婦が患者に集中できる体制を作るために、看護婦のみならず調薬・中央検査室・中央放射線室など広範な職種での業務の検討が必要であることを明らかにした。職組は「移行」の際の条件として、具体的な設備改善要求と多職種にわたる業務の見直しを次の3点に集約して当局に提起した。

 (1)付添いに頼らなくてもよい看護を目指す。(2)看護婦等の労働条件および権利の低下をさせず、一層の向上をはかる。(3)病院運営の民主的ルールづくりを前進させるとともに基準看護のもっている矛盾や問題点を明らかにし、当面基準看護の枠のなかでも可能な改善を行う。

 当局との交渉と並行して、職組は患者・地域へのビラ宣伝、8回にわたる病院長交渉、対県交渉など精力的に取り組み、広く県民に大学病院の実情を訴えた。また、ILO看護職員条約の意義・内容・課題の学習のために、「大学病院における看護のあり方をめぐって−ILO看護職員条約講演討論会」を開催し、婦長・短大教員を含む多くの職員が参加した。

 78年3月、基準看護のもつ多くの矛盾をはらんだまま、宮城県は附属病院の「特二類」移行を認可したが、1年以上にわたる職組の闘いは、院長をはじめ事務当局を「付添いをなくし、看護は看護婦の手で行う」という立場に立たせ、これを具体的に検討するための「看護業務検討委員会」が発足した。さらに、これらの闘いによって、(1)看護婦の暫定定数を80名(77名+純増)とし、流用定員を返還する、(2)年間通してメッセンジャーを配置する、(3)夜間パートを採用する、(4)他大学にさきがけて、病棟事務員の配置を勝ち取る、などの成果を上げた。また、これまで300名いた付添いが200名に減るという改善が生み出された。加えて、看護部の研修予算が24万円から100万円に増額され、夜間勤務のタクシー代の増額も勝ち取る成果があった。

 その後、職組は「特二類」移行の闘いを総括する学習会を開催し、さらに職場の実態調査の成果をもとに病院長交渉において多くの問題を提起し、それらの解決を要求した。78年には第二外科の深夜勤務を2人から3人に、手術場の当直制を二交代制にするなどの労働条件の改善を果たした。そのような改善は看護婦・夜間看護助手など、約80名の増員につながるものであった。

 この年に開催された第20回医大懇には、給食部2名を含む13名もの組合員が参加し、「特二類」の取組み、「手術場・ICUK術前訪問」など、33ページにわたる資料を作成して参加した。また、全体討論では「宮城県沖地震から何を学ぶか」をテーマに、患者と職場の安全、病院における防災の課題について貴重な提起をした。  さらに、病院給食部は長らく12時間に及ぶ拘束、超勤カット、人員削減に苦しめられてきたが、78年秋には全員が職組に加入し、病院支部として病院長交渉を継続して、一時は8時間勤務、交通費の支給、反組合行為を行わないなどの約束を取り付けたが、その後事務当局はそれらを反故にするばかりか、個人攻撃を含む組合攻撃が露骨になり、事務局長独断によるパート職員の募集を行った。これは職組との話合いに反するものであり、職組は強く事務局長に抗議した。その結果、パート募集の撤回、超勤費支給方法の検討、土曜日の半日に超勤費を支給するなどの成果を勝ち取った。

2.1.5 保育所問題

 75年、本部執行委員4名、保育所支部1名、病院支部長町病院分会1名の計6名からなる保育所対策委員会が職組に設置された。委員会では(1)文部省に保育所の設置を認めさせること、(2)保母の健康管理と待遇改善、(3)保育所の設備改善、および保育内容の向上、(4)職場保育所から認可保育所への移行問題、(5)地域保育所の増設および充実への運動、(6)職場に三番目の保育所を、(7)職場保育所維持のための基金問題、などを活動の方針とした。この年、大学部の文部省交渉において大学の職場保育所の1施設当り2名の人件費と施設費として8万円を予算化することが実現し、文部省に保育所の設置を認めさせることができた。このような経過のなかで75年、長町地区に広南会病院保育所が保母2名、保育児6名で発足した。対策委員会はその後、残る6課題を中心に学習会を重ね、公私立保育所の見学などによって、職場保育所といえども、地域とのかかわりを含めた広い視野をもった保育所運動を進めていくことの必要性を確認した。

 77年片平保育所開設10周年を迎えたが、このころから大学の財政状況は危機的な状態に陥り、職場保育所を認可保育所に移行させることが具体的な議論となってきた。79年、保母の職業病が続発して、保育条件および保母の労働条件の抜本的な見直しの必要性が表面化した。この改善策は職組と大学当局との間で「授乳所に関する確認書」に盛り込まれ、当面の改善がなされたが、抜本的な解決にはならず、保育所の市立保育所への移行が検討された。しかし、80年に事務局長が「市立移行」断念し、急速に「法人化」の検討に入った。職組はこの状況をうけて、「よりよい保育所づくりを目指して全学運動を」とする方針を発表し、学内諸階層の意思の集約をはかった。また、学童保育運動が市内各地区で活発になってきた状況をうけて、これらと連携しながら保育所運動を進展させていった。

2.2 大学改革と民主化

2.2.1 「東北大学自治侵害事件」最高裁不当判決

 65年、農学部の青葉山移転計画問題は「強化しつつある大学への官僚統制に反対し大学の自治をまもり発展させる闘い」へと発展した。その闘いのなかで移転計画を強行しようとする大学当局と、日韓条約反対、ベトナム侵略戦争反対闘争の高揚を押さえ込もうとする県警とが結託して、学生3人の逮捕という事態が生じ、東北大学の歴史にかつてない大学への警察の導入を強行したことが「東北大学自治侵害事件」の発端であった。

 2人の学生が起訴され、6年間法廷で争われた後、71年5月、仙台高裁は「学生の行為は大学の自治を侵害から守ろうとしたものである」として無罪の判決を下した。しかし、検察は最高裁に上告し、75年12月、最高裁は「高裁の無罪判決を破棄し、一審通りの罰金刑」を言い渡した。これは高裁での争点であった「学生の自治への参加権」「実質的な違法性」についてまったく触れない政治的な判断であった。

2.2.2 教養部改革をめぐる動き

 73年に成立した筑波大学法に続いて、中教審答申に基づく大学の反動的再編成を企図する施策が次々と打ち出されてきた。74年には「新構想大学」に関する答申をうけた「学校教育法改正案」が国会に上程された。このような動きのなかで、東北大学評議会に設置されていた第一改革委員会は「東北大学の編成および研究教育の改革に関する答申」(一革答申)をまとめた。職組は学内教研で一革答申の討議を行い、教養部制度の矛盾の解消にとどまるだけではなく、一般教育と専門教育との有機的な結合をどのようにはかるかの検討が重要であることが議論された。この成果は全国教研においても報告され、大学の民主的改革を「偉大な模索と実験」と位置付け、この討議の積極的な推進を確認した。

 75年評議会は一革答申の問題点を整理して、その解決に向けた9.3委員会を設置し、おもに教養部改編に関する部分について報告をまとめたが、結論を得るには至らなかった。職組は76年の大学部教研に「教養部改革を中心とする東北大学改革」を報告する一方で、全国の動向や多様な経験に学んだ。77年12月、学内共闘組織「平和と民主教育を守る連絡会議」は「全階層討論集会−東北大学の現状と方向を探る−」を開催した。分科会「教育研究のより良き環境をつくるために」と「社会的要請にこたえた大学形成のために」では14の報告があり、ここでの討論は、のちに東北大学白書の一環として発行された「東北大学の諸問題」にまとめられ、各団体で活用された。このような広い観点からの討議を基礎に、職組は学長交渉において、教養部改革委員から一革専門委員会に提示されている3学部1センター案の審議促進を強く求めた。一方、大学教育に関する地域住民の意見を広く聞く試みとして地域対話集会「大学をめぐる教育問題を語る地域ごと対話集会」を開催した。

 その後、一革答申の各部局教授会での討議はほとんど進展せず、とくに教養部問題については部局セクト主義の域を出ないまま推移した。しかし、学内の学部・学科の改組拡充の自主改革の動きが活発化する様相をみせており、職組は大学教職員運動の原則である「自主・民主・公開」と「全学一致」を改革の柱にしていくことをより明確に求めていく必要性を重視した。78年、職組は教育改革「懇話会」を開催し、この取組みを通して東北大学の教育改革の具体化において不十分であった一般教育の理念に関する議論を深め、学内の世論形成をはかることを目的とした。月に1回のペースで「一般教育の現行カリキュラム・理念・具体的試案」が論議され、必要に応じて院生・学生を加えた議論が展開された。この議論は学内教研の「東北大学における教育の現状と課題」と題する集会で、一般教育・専門教育に関わる教員による教育実践報告と、図書館職員による大学教育における図書館の役割など多面的な角度から深められ、それらは冊子にまとめられて活用された。

 この間、3学部1センター案は概算要求で調査検討費を要求する動きをみせたが実現には至らず、84年に教養部の広域科学部への転換が議論されるまで、評議会など学内議論が停滞した。


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