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東北大学職員組合50年史 第3部

改革(1990〜2000年)

 政府・財界主導の大学「改革」か、あるいは大学の自主的・自律的改革か。これが90年代を特徴付ける対抗軸である。すでに80年代に、「合理化」「効率化」を旨とする大学像が政府・財界から希求されていた。附置研究所のスクラップ&ビルド、大学教員の業績評価、寄付講座、大学院の再編などがその現れであり、とりわけ87年の大学審議会設置以降その実現に向けての動きがきわめて活発化した。とくに、大学設置基準の改訂、大学院重点化、大学教員への任期制導入などが、それぞれ大学のあり方に重大な変容をもたらしたが、その最たるものが、いわゆる国立大学の独立行政法人化問題である。公務員定数の削減という大学の自主的改革とはまったく無縁な動機から出発した大学「改革」は、本書刊行時のまさにいま、正念場を迎えようとしている。それどころか、2001年に発足した小泉内閣のもとで、国立大学の民営化さえ目論まれている。職組は21世紀のあるべき大学像を示しつつ、真に国民のための大学を作るために奮闘する。

第5章 大学「改革」と大学改革

5.1 大学審議会答申の具体化とそれへの対応

5.1.1 教養部の廃止とその後の大学「改革」

 前章に述べられたように、広域科学部構想の破綻によって、教養部が抱える諸問題の解決は、あらためて全学的な課題として振出しに戻った。ここであらためて、教養部廃止に至るまでの経過について、振り返っておく。

 東北大学ではかなり以前から、教育・研究体制のあり方についての議論が行われてきたが、そのなかでとくに焦点になっていたのは、「『空洞化』とさえいわれた一般教育のあり方と、その責任部局としての教養部の教育・研究体制の改善の方途」であった。したがって、教養部改革は、これまで学内で議論されてきたなかから生まれてきたという一面も有している。当初は、教養部という枠組みを前提として、教育の内容や方法についての改革が試みられてきたが、69〜70年頃から教養部の組織そのものの変革を含む改革構想について議論され始めた。

 改革構想を審議するために評議会のもとに設置された第一改革委員会(70〜74年)によって、「4年ないし6年一貫教育、一般教育と専門教育の有機的結合、全学の責任で一般教育を実施すること、教育・研究の上で2種類の教官をつくらないこと、などを基本的な考え方とした教養部の廃止を含む改編案」が、議論の出発点として提案された。その後、その構想の具体化のために、いくつかの委員会が設置され、そこでの検討の結果、84年には教養部を廃止して「広域科学部」を設置する構想が提示された。この構想を基礎にして、85年以来「広域科学部」の設置が概算要求として提出されてきた。

 「東北大学教養部報」96号では、以上の経過を述べたのち、大学審議会の答申とそれをうけた大学設置基準の改訂(91年7月1日)の内容について触れ、それらをふまえた結果、「一般教育を担当する部局の存続を前提としてきたこれまでの改革構想(広域科学部構想)をそのままの形で実現することは困難となった」と述べている。それに続いて、この設置基準の改訂が、「一般教育の改革を含む大学全体の改革を喚起する内容となっており、それは、本学が永年にわたって検討してきた教養部の改革を一段と促進することとなった」と指摘している。つまり、政府・文部省の政策の推移により、学内の長年にわたる議論の結果生まれてきた「広域科学部」構想は頓挫したが、教養部の廃止という方向だけは生き残り、その結果生まれてきたのが教養部の廃止とそれに伴う一連の措置であった。

 以上の経過をみるかぎり、東北大学における教養部改革は、一方で本節冒頭に述べたように学内での一般教育のあり方をめぐる議論を背景としつつも、他方で最終的には政府・文部省の強力な指導のもとで実行に移されたという性格を有しているといわざるを得ない。また、この「改革」は教養部の廃止と、大学教育研究センター・情報科学研究科・国際文化研究科・言語文化部・留学生センターの新設にとどまらず、教養部教官の他部局への配置換えを伴うものであり、既存部局におけるその後の改革構想に深くかかわりをもつものであった。事実、一部の部局では、教養部から配置換えになった定員は、結果的に「大学院重点化」の際の「原資」となっており、文字通り全学的な教育・研究体制の再編の契機になった。

 その後の大学「改革」は「大学院重点化」を軸に進められ、理学部・工学部を皮切りに、99年度には全学部で「重点化」が完了した。「大学院重点化」によって、校費の算定基準や建物の基準面積が増加したとはいえ、大学院生の増加により、研究室の狭隘化や研究指導面での教官の多忙化などの問題が生じるとともに、教官定員は増加しても技術職員・事務職員の定員はそのままか、あるいは定員削減により減少したため、全職員に労働強化を強いている。

 90年代末には、後述する「独立行政法人化」を念頭においた「改革」が進行した。各研究科が「重点化」して間もないにもかかわらず、99年には理学研究科・農学研究科・遺伝生態研究センター・加齢医学研究所・反応化学研究所など多くの部局がかかわる独立研究科「生命科学研究科」の新設構想が急遽打ち出され、2001年4月には早くも設置された。また、2000年に入ってからは、環境にかかわる独立研究科の構想が打ち出された。他にも、科学計測研究所・反応化学研究所・素材工学研究所を統合し、多元物質科学研究所が2001年4月より設置された。このような性急な「改革」の動きには、「独立行政法人化」やむなしとの判断から、いまのうちに概算要求し、実現しておこうという思惑があり、十分な検討がなされ、本当に構成員の合意が形成されたのか、また充実した内容の改革になっているのか、という点で疑問が残る。また、「生命科学研究科」の新設をめぐる動きのように、いわば「総長主導」による「改革」の推進は、「独立行政法人」になった場合の大学運営手法の先取りともいえよう。

5.1.2 青葉山へのキャンパス移転問題

 94年、新聞報道によって片平・雨宮両地区の青葉山ゴルフ場への移転計画が明るみに出た。その後も、この計画は学内でまったく公表されないままに総長と宮城県との話し合いがもたれるなど、不透明なままで経過している。翌年には東北大学・宮城県および仙台市の三者会談がもたれ、96年には宮城県議会が「青葉山県有地の返還を求める決議」を行い、ゴルフ場経営業者と県との訴訟に発展している。

 この事態に対して95年、職組は学習会を開催し、本計画が明らかになって以来、片平地区の老朽化した建物の改修計画が一切停止していることの深刻な問題や、雨宮地区の手狭な環境の実情などを確認し、その検討結果を「職組見解」という形にまとめて、移転計画の公表と両地区の早期問題解決を要求した。評議会は96年に「東北大学新キャンパス構想」を公表したが、ゴルフ場と県との訴訟が係争中であるために、いまだに具体的な進展はない。

5.1.3 大学教員の任期制について

 95年、大学審議会は「大学教員の任期制について」と題する提言を公表した。これに対して職組は法制度の専門家を招いた学習会を開き、任期制教員の「再任拒否」には対抗することが難しいという重大な問題を認識した。教文部会はこの提言の危険性を職組の「見解」としてまとめ、全教員に配付するとともに記者会見で発表した。  翌年、この提言は、正式に答申として公表された。そのなかでは、大学の活性化のために各大学の「自主的判断」で大学教員の任期付任用ができるという「選択的任期制」の導入がうたわれていた。これをうけて政府・文部省は即座に「任期制法案」の作成にかかり、次期国会で成立をはかるという緊迫した事態となった。

 教文部は答申の問題点を明らかにした法制化反対の声明を発表するとともに、国会上程反対に向けた活動を開始した。理・工・農・金研各支部で取り組まれた任期制学習会への講師の派遣、および日本科学者会議宮城支部との共催「科学技術基本計画学習討論会」を開催するなど、教員任期制が科学技術基本計画と密接にむすびついた、科学技術政策をゆがめる内容をもつことを議論した。97年、全大教東北地区協議会は任期制法制化反対の行動を広げることを決定した。学部長経験者クラスを含む80名ほどのよびかけ人会を結成し、東北地区の大学教員に法制化反対の署名とカンパをよびかけた。その結果、目標の署名1,000名(内東北大学232名)、カンパ1,000万円(内東北大学23万2千円)をほぼ達成する成果を得て、よびかけ人代表による記者会見で発表された。さらに、寄せられた基金を運用して、テレビスポットによる意見広告を東北6県に放映した。

 この年の4月に「大学の教員等の任期制に関する法律」案が国会に上程された。職組は、この法案は大学教員の身分を不安定にし、中長期的研究を困難にするうえ、現行公務員法・労働基準法の精神に反すること、身分待遇の保障規定もなく、労働基本権の侵害であること、教育の軽視、若手の人材確保を困難にすること、などを明らかにしながら反対行動を強めた。一方、全大教の中央行動への参加、衆参両院の文教委員会の傍聴および議員への要請行動、電報・ファックス・ハガキによる文教委員への要請を行った。

 本法案は上程後わずか2ヵ月という短期間の審議で成立したが、審議の過程で政府から、「任期制の強制はしない」「任期制は大学活性化におけるひとつの方策にすぎない」などの国会答弁を引き出し、また衆参両院で異例ともいえる多項目の付帯決議がつけられるなど、今後の運用に一定の枠を設定する成果を得た。この年8月に行われた総長交渉では、「任期制導入は各部局の判断に任せ、トップダウン的に導入をはかることはない」という総長の発言を得た。しかしながら、その後、加齢医学研究所の助手に(任期3年、再任不可)、さらに6月には科学計測研究所の助手に(任期5年、再任不可)任期制が導入され、他大学でも相次いで導入された。

 任期制が実際に導入された背景は、橋本内閣の行政改革会議における国立大学民営化・独立行政法人化の議論や、行革会議事務局長の「東大と京大をまず民営化すべき」という発言にみられるように、政府による国立大学攻撃に対して、国大協や国立大学の一部が危機感を強め、過剰に反応したことである。このように政府、文部省は国立大学民営化という脅しを背景にして任期制導入の促進をはかり、国大協はそれと闘う姿勢を放棄したのである。

5.2 組合の目指す大学

5.2.1 東北大学白書

 戦後最大の経済不況といわれた76年は、大学の財政的な圧迫を誘起し、第四次定員削減の進行に拍車をかけて、それらは教育・研究体制の全体的な危機として全学に広がった。職組はこの年の秋闘で各部局における定期講読雑誌の停止や光熱水費の増大による研究費の圧迫など、具体的な危機の現われを明らかにすることを重視した。このような大学の危機を訴えた中央委員会のアピールに沿って設置された白書委員会は第一次白書をまとめ、引き続いて署名運動を展開した。これらの成果をもった上京団が文部省と交渉し、東北大学の現状についての理解を迫った。

 日教組大学部は、「大学部での77春闘」の一環として「大学の危機打開のための諸要求実現をめざす5・21全国集会」をよびかけた。職組は在仙大学合同集会に取り組み、当時日教組に未加盟であった宮教大・宮農短大の参加を得るなどして、これを成功させた。同時に白書運動をこの闘いに結合し、予算問題に関する第二次白書、定員外職員に関する第三次白書をまとめた。これらは「職員組合定員増要求書」の作成に反映され、学長に提出された。80年代後半から、学内で急速に展開された改革の動きに対して、職組は現状を把握するための「東北大学白書」の作成に着手した。定員削減の実態、校費と旅費および科研費の年次的な推移、学生・院生および留学生数の推移、施設の老朽化の状況、在職死亡者数など、中心的に取り上げた課題は何れも大学が進めようとする改革の裏にあるものであり、それらの実態を明らかすることによって大学の真の改革に寄与することを意図したものであった。白書は1993年に「大学はいま−危機的な日本の高等教育機関の現状」と題するグラフ写真集の形で完成し、組合員および関係方面に配付された。

5.2.2 東北大学改革フォーラム

 東北大学の大学院重点化の方向は94年になって一層具体的になり、その内容の検討が急務となってきた。職組は教養部解体を含む学内諸改革に伴う労働・研究・教育条件を点検し、問題の是正・改善をはかること、広く教職員および学生に改革をめぐる意見を求めて、大学改革を大学人の手に取り戻すこと、キャンパス移転問題について大学当局に説明を求めることなどを目標に運動を展開した。95年に開催された東北大学改革問題討論集会(東北大学改革フォーラム,プレフォーラム)では、大学院重点化の背景の解析が討論され、日常の教育・研究に生じた多様な変化や問題点が指摘された。とくに、学内の民主的手続きの退行、教育理念抜きの性急な改革論議が行われているという指摘がなされた。96年6月に「大学改革フォーラム」を開催し、大学院重点化をめぐる問題や全学教育について議論した。

5.2.3 東北大学改革メーリングリスト(aoba)の開設

 任期制法制化に反対する運動に端を発して開設された電子メールによる大学改革情報ネットワーク「reform」が、大学間の素早い情報交換および討論を可能にし、運動を進めるうえで大きな力となった。このネット上でのよびかけに応えて準備されたリレー討論会(東大、97/5.30〜31)は新しい取組みであった。このような経験から、職組は97年6月に学内電子メールネットワーク「東北大改革ML」(aoba)を開設した。現在、学内の諸問題に関する組合員間の情報の交換と討論の場としての機能を果たしている。

5.2.4 東北オープンユニバーシティ(TOU)の開学

 職組が一貫して掲げてきた「国民のための大学づくり」の具体化であり、地域社会と大学の知的財産との結合を体現する取組みとして、職組を母体とする「東北オープンユニバーシティ」が98年に発足した。これは、(1)教育活動を通して平和・民主主義・住民自治という組合の課題の実現を目指す、(2)東北大学内外の大学人との交流と連携の輪を広げる、(3)これらを通して組合の財政的・組織的強化をはかることを課題とした。TOU開学を記念して、シンポジウム「分権型社会の構築をめざして−情報公開と市民参加」および井上ひさし氏の講演「井上ひさし、東北を語る」が開催され、作家井上ひさし氏が名誉教授に就任した。

 TOUは山形県金山町・岩手県湯田町教育委員会と共催して、公開講座開催や自治体の教育構想の具体化に参画するなどの活動を行っている。こうした活動は大学の職員組合の新たな運動形態として、マスコミからの注目を集めた。また、全大教の集会において報告し、他大学の組合の関心が高まった。


第6章 行政「改革」と大学

6.1 定員削減の影響

6.1.1 行(二)職員

 75年当時は、ほとんどの部局に行(二)職員が作業員・警務員および運転手として配属されていた。しかし、臨調「行革」路線のもとで定員削減が実施されて以来、最初にその対象にされたのは行(二)職員であった。現在では行(二)職員が退職したのち、そのポストは不補充であり、職場から姿を消しつつある。

 職組はこのような無権利状態におかれていた行(二)職員の要求実現に向けて、大学病院給食部および学生寮職員を中心に行(二)職員部会を作り、待遇・労働条件改善などに取り組んできた。この間の特筆すべき運動として、83年、病院給食部門の民間下請けを阻止したことが上げられる。この闘いでは病院玄関前で300名規模の全学集会を開き、さらに80名参加の病院長交渉を行った。その結果、民間委託の白紙撤回、2名の定員化実現とさらに2名の定員外職員採用を約束させるなど、組合は全面勝利を勝ち取ることができた。この闘いのなかで、給食部12名、看護婦1名の仲間を組合に迎え入れた。

6.1.2 看護婦

 大学病院当局はコスト削減、増収、効率的な医療、機器合理化を追求してきたため、看護婦本来の業務に大きな支障が生じてきていた。それにもかかわらず、看護婦の定数増がなされないばかりか、病床の増加によって実質的には定数が減少している。また、特定機能病院として認定されているために重症患者の割合が高い。看護婦の定員は私立や公立の大学病院の三分の二であり、夜勤回数も月8.3日にもなっている。この状態は1965年の「人事院判定」がいまだに実行されていないことに起因している。看護婦の増員闘争「ナースウエーブ」は全国的な運動の広がりをみせた。病院支部はこの運動に積極的に取り組んだが、総定員法や定員削減政策に阻まれ、具体的な成果を勝ち取るには至らなかった。

 近年、国の医療費抑制政策の押付けによって、大学病院では在院日数の制限、検査入院の受入れ、患者への一時退院の勧めなど、経営本位の医療が日常化している。この医療方針はベット稼働率のアップやコスト削減の締付けを厳しくし、業務の多忙化・繁雑化を生み出し、大学病院はゆとりのない職場環境になっている。東北大では新病棟建設の目玉として、2000年9月緩和ケアセンター20床、重症病棟20床が新設されたが、それらを維持する看護婦の増員は認められなかった。そのために、既設の病棟から1〜2名の看護婦が吸い上げられ配置された。この措置は夜間看護加算に見合う夜勤要員の不足を来たし、それを補うために設けられた外来と病棟看護婦のプール制によって、外来看護婦も夜勤に組み込まれるようになった。その結果、体調不良や諸事情により夜勤ができない看護婦さえも、夜勤要員として勤務につくことが強制されている。さらに、これまでの3人夜勤が2人に減り、夕食時の休憩時間も取れない過酷な超過勤務が増える一方である。

 昨今、たびたび医療事故が報じられている。これら医療事故の多くの場面で、看護婦の過労を強いられる労働環境や慢性的な過密労働が明らかになっている。事件の刑事責任を問うことや、個々の防止策も急務であるが、看護要員を充足し、勤務体制を根本から見直すことこそ最大の課題である。病院管理・看護管理のあり方を再検討し、看護婦が責任を果たし、信頼されて業務に携われるように増員と業務の見直しが重要である。

 大学病院に求められている高度先進医療・救急医療に対する国民の期待は大きいものがあり、それに応えていくことが大学病院の使命である。質の高い医療看護が実践でき、働き甲斐のある大学病院を、また安心して医療をうけられる社会を作っていくために、職組の活動が一層期待されている。

6.1.3 事務職員

 65年以降の行政職員不補充政策と九次にわたる定員削減は、長時間労働の日常化、事務業務の外注化、事務の統合および機構改革を余儀なくさせてきた。

 事務職員の勤務条件は、外部資金の拡大、留学生の増加と国際交流、大学院重点化の推進などによる事務量の増加と相まって、サービス残業があたりまえとなっている。また、過密労働は研修などが十分に保障されないため、仕事についていけない職員も生まれるなど、人事面での矛盾も拡大している。事務業務の外注化は、90年歯学部附属病院の診療報酬事務、2001年医学部附属病院給食部が実施され、2003年には診療報酬事務が見込まれている。今後は、入試・教務事務への拡大も予想され、全学的な検討が求められている。

 事務の統合および機構改革は、歯学部と附属病院事務の統合、教養部改革に伴う国際文化研究科等事務、情報科学研究科の創設に伴う工学部等事務、学生部の学務部への改組、情報科学研究科等事務の創設、3研究所統合に伴う多元物質科学研究所事務の改組があった。しかし、事務職員の労働条件の改善や業務の見直しについて検討が十分に行われずに進められるため、矛盾を多く残す結果となっている。

6.1.4 図書館

図書館新館(2号館)開館に伴う取組み

 図書館の新館(2号館)増築に伴う定員増などを実現するために、本部執行委員会に図書館問題対策委員会を図書館支部の執行委員も含め設置した。図書館の職員数は、七次にわたる定員削減政策によって89年までの16年間に13人も削減され、63人(このうち定員は11人減で39人)になっていた。反対に図書館で必要とされる労働力は、学生数・蔵書数の増大や86年のコンピューターの導入後、年々増大していた。とくに閲覧掛では、閲覧図書の出納員の確保ができず、年休なども取りにくい状態が続くなかで、さらに2名の定員削滅が強行された。

 90年4月オープンの2号館は中規模大学の図書館の大きさに匹敵し、これだけで既設の図書館スペースの1.5倍増となり、さらにサービスカウンターなどが新設された施設であった。このような大規模な施設拡充であったにもかかわらず、定員配置措置がなされず、本館1号館からの配置換えによる4名で運営されることが決められた。この結果、出納など最小限の業務しか行えず、昼休み時間帯には交替勤務が課せられるなどの過剰労働が強いられた。

 職組は、2号館開館を前にして、(1)早急に定員増を行うこと、(2)定員外職員を定員化すること、(3)業務の変更などは職員の納得と合意のうえで行うこと、(4)図書館の管理運営体制を基本的に見直すことを要求し、89年11月学長交渉、90年3月に事務局長交渉を行った。その間、図書館支部と数回の話し合いを行うとともに、職場集会で職場の状況と組合員の要求の集約を行ったうえで学長交渉を申し入れたが、学長が病気入院のため実現しなかった。

 職組は3月30日図書館前で全学集会を開催し、さらに4月評議会開催日、参加評議員に職組の要求と事態の打開を求める訴えを手渡した。また、本部執行委員が参加した支部による図書館長交渉では、図書館商議会決定である「4名の人員増」を実現するよう強く要望した。図書館支部は数次にわたる館長などとの当局交渉を行い、2回にわたる声明を発表した。この取組みの結果、図書館当局が当初予定していた4月の新館開館日を5月に延期させた。

図書館における定員増の闘い

 図書館本館では定員外職員が全職員中の38%を占め、全学的にみて異常な高さであった。とりわけ、20年以上定員外職員で勤務している職員がいて、その定員化は緊急の課題であった。図書館支部では、定員増と定員外職員の定員化および図書館の充実と発展に資する管理運営体制の確保等を要求して事務局長交渉などを行ってきた。図書館当局は89年、新館増築に伴うサービス範囲の増加に対する要員確保について商議会を経て共通経費を要求した。しかし、学長裁定による1名のパート職員の増員にとどまり、新館(2号館)開館による労働強化は館全体に及んだ。

 書庫掛の廃止により書庫掛の行っていた業務は他の掛の負担増となり、閲覧第一掛では返却本の再配架も日々の配架作業では追いつかず、ブックトラックに積んだままとなり、書庫内整備も手をつけられず放置され、書庫内の乱れは憂慮すべき事態となっていた。また、貴重な特殊文庫本の補修の遅れは利用へのサービス低下につながる状況であった。さらに91年5月の学長交渉で図書館の現状を訴えたが、当局は「コンピューターの効果的活用」のみを強調し、定員増についてはまったく誠意を示さなかった。

 図書館にこのような問題が山積する背景のひとつとして、館長および部課長が2、3年で替わる管理運営体制があり、これに対し、東北大学附属図書館のあるべき姿の基本構想とその計画的施行の追求、将来的発展が望める体制の確立を求めて行く必要があるとの問題提起がされた。

6.1.5 低賃金と多忙化に追い込まれた教員層

 74年、「教員人材確保法案」の第二次勧告によって、大学教員の賃金水準が小中高教員より大幅に低いことが明るみに出て、大きな問題となった。76年、職組は大学教員の賃金問題に集中的に取り組む教員問題対策委員会を発足させた。とくに「助手の講師ふりかえ」要求の全国的な広がりのなかで、職組は全学助手会と共催して「ふりかえ」要求に合理性を付加して概算要求に盛り込ませる議論を重ねた。全国的には概算要求に盛り込まれた助手の「講師ふりかえ」の総数は三桁に達した。東北大学では79年度と80年度に理学部で助手の「講師ふりかえ」の概算要求が出されたが、実現には至らなかった。80年になって国大協は各大学・部局の歴史性に基づく任用や役割などの違いによって助手が多様化している実態を調査し、「講師ふりかえ」よりも技術専門官制度の確立を先行させる方針を打ち出した。

 81年、大学部は「大学教員賃金の手引き」を発行し、職組はその学習に取り組み、その結果、教員賃金対策委員会を発足させた。一方、87年度に教員・看護婦を含む第六次定員削減計画が明らかになった。職組は定員外職員の定員化と助手の講師ふりかえを中心とする定員増概算要求運動を強め、3名の助手の講師ふりかえが実現した。

 90年代になって、「国立大学教員の賃金が小中高教員より低い」と新聞に報じられたことを契機に国立大学教員賃金の実態が再び社会問題化した。これは劣悪な研究・教育条件と相まって、優秀な教員の国立大学離れを加速するなど、憂慮すべき問題を惹起すると各方面からの指摘をうけた。職組は全大教が提起した「教員賃金アピール」署名活動に取り組み、その成果をもって学長交渉に臨み、教員の待遇改善に可能な限りの努力をするように要請した。95年、全大教の大学教員賃金の改善要求に対して、文部省はその必要性を認め、教育・研究調整額の要求を大臣要望として人事院に出していると回答した。

 96年の大学審答申による大学教員の任期制導入は、教員の安定した研究・教育活動に大きな打撃を与えるものであった。大学教員は低い賃金におかれたまま、大学院重点化による学生増と短中期的な成果を求める業績評価などによって、教員個々人の多忙化が進み、その結果、教員の孤立化が著しく進行している。とりわけ、分野を越えた教員の交流が極端に減少し、同じ学科・研究科内においても、それぞれの専門を理解しようとする気風が皆無に近い状態である。このような状況のなかでこれまで培われてきた大学運営の民主的な手続きが崩壊していき、権威主義的な大学運営が強化されつつある。とりわけ、若い教員の孤立した状態の日常化は、将来の大学の発展にとってゆゆしき問題を残すことが危惧されている。

6.1.6 新しい局面に立つ定員外職員問題

 20数年前には800名以上在籍していた定員外職員は、研究・教育費の相対的な低下によって激減し、これにかわってパート職員が激増した。98年10月現在の調査によると、非常勤職員の総数は1,139名であり、その内訳は定員外職員211名、パート職員833名、その他が95名である。この数字は大学の研究・教育を常勤職員だけではとうてい支えることができない実態が現在も依然として変わらずに存在し、それどころか職員の不足が一層深刻になっていることを示している。これは九次に及ぶ定員削減政策の強行によるものであることは明白であり、注目される内容として、パート職員が定員外職員にとってかわり、著しく増加していることをあげることができる。

 定員外職員の労働条件は、職組が長い年月をかけて当局から闘い取ったものである。パート職員にはこの労働条件が適用されず、無権利状態といっても過言ではない。このような職種の職員が近年急増していることは、「教員と支援職員が共同して大学の研究・教育の発展を期す」という大学本来の理念の放棄につながる。職組はこのようなパート職員を組織し、その切実な要求、とりわけボーナス支給を含めた待遇の改善の運動を強めなければならない。

 81年、職組は定員外職員部会を設置して定員外職員の定員化、年末年始の有給休暇の獲得、共済組合の適用などに取り組んできた。とくに、定員外職員の定員化について大きなエネルギーを注いできたが、定員削減政策が強まるなかでこの闘いはきわめて困難な闘いであった。86年に文部省は定員化のための3基準を示したが、それを越えることは至難のことであり、その壁を打ち砕くことができなかった。しかし、定員並みの休暇の実現や頭打ち撤廃措置など、多くの労働条件改善の成果を上げてきた。

6.2 人事院勧告の無力化とそれへの対応

 90年代に入り、いわゆる「バブル」がはじけ、日本経済は深刻な不況にみまわれた。一方、80年代より引き続く行政「改革」により、公務員の賃金・労働条件の改善は抑制され続けられている。また、90年代後半からは本格的に民間企業で、いわゆるリストラ「合理化」が進められ、その影響は公務員にも波及してきている。そのような状況下で、公務員の賃金・労働条件の改善をはかることを目的とした人事院勧告はその機能を弱めて、逆に公務員労働者の賃金抑制策の尖兵の役割を果たしている。職組は他の公務労働者はもとより、民間企業の労働者とも共闘し、人事院本来の機能を果たさせるべく闘いに全力を尽くしてきた。

6.2.1 人事院勧告の推移

 91年の平均3.7%の賃金改善で、一部の職層にわずかながら改善がはかられたが、それ以降は、92年の2.87%、93年の1.92%、94年の1.18%と続き、95・96年は連続して1%を下回った。97年は1%をわずかに越えたが、98年には史上最低の0.76%の賃上げであった。この低落傾向は今日まで続き、99および2000年では名目でも前年賃金を下回る事態になった。また、一時金については、93年に15年ぶりに0.15ヵ月分の切下げ勧告が出された。諸手当については96年、寒冷地手当の削減、98年、調整手当の見直しが勧告されるなど、90年代に入ってからの人事院勧告は本来の役割から大きく後退する内容であった。

 賃金以外の労働条件については国公労働者の運動によって、91年の週休2日制、育児休暇制度の導入を勝ち取り、93年には中途採用者の初任給格付け改善や、扶養手当の3人目からの改善、住居手当の限度額の引上げ、単身赴任手当の改善、休日の代休制度、介護休暇制度の新設、94年の年次休暇の翌年繰越し日数の拡大、95年の扶養手当の改善、転勤者・単身赴任者への特例措置など、一定の成果を上げた。

6.2.2 差別的人事管理制度の導入

 90年代の人事院勧告の特徴は、賃金における後退にとどまらず、公務員の人事管理制度に、「弾力的」という名目でさまざまな点で差別的な制度を導入してきたことである。92年の勧告では、研究職へのフレックスタイムの導入および研究職以外への拡大や新たな勤務時間の弾力的運用の言及がなされた。これ自体は差別的といえるものではなかったが、いわゆる人事管理制度の「弾力化」の一環であり、注意を要する内容であった。

 本格的に差別的な制度が導入されることになったのは、勤勉手当の支給方法の変更である。95年の勧告では、勤勉手当支給の「弾力化」が盛り込まれ、本学でも、11月に人事課長が一方的に勤勉手当の支給方法の変更を通告してきた。職組は即座に抗議の立看板を事務局前に立て、その措置への糾弾を行った。さらに、支部・本部の合同執行委員会を開き、11月21日の評議会に向けて、全評議員に「要望書」と「申入れ書」を送付すること、総長には「要望書」および「申入れ書」の送付とともに組合との交渉に応じることを求めた内容証明付郵便を発送することを決定し、評議会当日には昼休み緊急集会を開催することを決定した。同時に、支部では部局の評議員に対して強く働きかけるなかで、当局は21日、最終的にこの措置を断念せざるを得ない状況に追い込まれた。しかしこれ以降、全般的に差別的な人事管理制度への方向が強化されてきた。96年の人事院の報告では、定年退職者再任用制度の骨格が示され、翌年5月に法案が国会に提出された。その内容は能力主義に基づく選別や現行定員内での活用が前提となっており、大きな問題をはらむものであった。

 96年の人事院勧告では、「成績主義」強化の方向で人事管理制度全体の見直しをはかるという方向が打ち出された。さらに、翌年の勧告では、高齢者の昇給停止を3歳切り下げ55歳にするとともに、民間賃金体系・人事システムへの転換、職務と能力に応じた賃金体系の実現に言及があった。

6.2.3 春闘における新たな取組み

 上述のように人事院勧告の無力化・反動化という新たな事態に際して、国公労働者の運動は新たな方向が求められた。すなわち、不況下で民間の労働条件の悪化が公務労働者の賃金抑制の口実にされていることから、民間労働者との新たな共闘関係の構築が必須の課題であった。しかし、民間企業の労働組合の大部分が加盟する「連合」は、80年代に引き続き90年代も労使協調の「管理春闘」を基本とし、不況下で強まったリストラによる「合理化」および「賃上げよりも雇用」という財界からの攻撃に対し、有効な運動を組織できないでいた。このような状態のなかで、全労連加盟の労働組合は、「連合」傘下の中小企業の労働組合や未組織労働者に共闘をよびかけながら、地域での統一行動を組織し、粘り強い運動を続けた。

 92年からは民間大企業労働者との共闘を目指し、国公労連は、大企業の内部留保資金を明らかにした「ヴィクトリー・マップ」を作成し、「一発妥結」を拒否して闘う労働組合を激励した。その後も「ヴィクトリー・マップ」を活用しながら民間労働者との共闘を追求し、同時に大幅賃上げこそ不況打開の道であることを明確に主張して、国民全体の運動として春闘を闘った。一方、大学審議会答申の内容が次々と法制化され、大学への権力の介入が現実のものとなってきた。また、国立大学の独立行政法人化の動きなどから、大学の自治、学問研究の自由を中心にした大学の意義を春闘の課題と関連させて広く国民全体に訴えていくことが求められた。このように、90年代の春闘はこれまで以上に幅の広い活動が求められ、その取組みへのさまざまな工夫が必要になってきた。

6.3 職員の待遇改善

6.3.1 技術職員問題の経過

 大学に働く技術系職員の技術業務は、大学の研究・教育を遂行するうえで必要不可欠であることが、国大協や科学技術会議等からも指摘されている。とくに、近年理工系の研究においては、多様化・学際化が進み、高度で大規模な装置の利用が日常化し、さらに、研究者から高度の専門技術が要求されるようになってきた。また、「ものつくり」の重要性が叫ばれている昨今、学生の教育に対する技術系職員の果たす役割が大きくなっている。従来から、大学の技術系職員は、研究や教育上の要請に応えつつ、技術系職員自身が大学特有の卓越した技術を開発し、さらにその性能の向上・発展に大きく寄与してきた。それらがけっして少くない数の世界に秀でた研究として開花してきたことは周知の通りである。

 しかし、その技術業務が多様性に富み、成果の陰に隠れたみえにくい部分での業績であることから社会的な評価を得てこなかった面が多い。また、学校教育法や国立学校設置法など大学の根幹をなす法律にその職務内容が明確に規定されてこなかったことが、国立大学の技術職員の待遇を他省庁に比べて2級以上も低い位置に長く放置してきた。同時に、国立大学では同じ技術業務を行う技術系職員でありながら、行(一)、行(二)および教(一)の適用となる教務職という、3種類の俸給表が適用され、複雑な構造となっており、それが技術系職員の役割が正しく評価されずにいた原因のひとつになっていた。

 技術系職員が大学内で低い位置付けに放置されてきたもうひとつの要因は、教官や事務官が明確な組織をもっていたことと対照的に、独自の位置付け、すなわち職群として確立していなかったことが上げられる。技術系職員は、講座あるいは施設などで技術系職員と関係する教官との関係で専門技術が磨かれ確立していることが多く、教官の退官や転勤などによってこれまで培ってきた専門技術に断絶が生じ、新たな教官の研究に関する専門技術を再度修得しなければならない。このように大学における技術は特定の研究に付随した専門技術である場合が多い。したがって、大学における技術職員のこのような特殊性をふまえた要求として、技術職員の運動は進められる必要がある。技術職員運動は、研究・教育における「技術」の位置付けを明らかにし、その地位と職群を確立する運動として進められてきた。また、専門技術の向上・研鑽を促すさまざまな形態の研修が、技術系職員により主体的に取り組まれてきたことが大きな特徴であった。研修に関しては、98年の専門官制度導入以降、文部省主催で専門官・専門職員研修が実施されてきている。また、全国規模の技術系職員自身が主体となった研修も各研究所および大学で盛んに行われ、2001年3月には東北大学において、はじめて学部などが主催者になった全国規模の「東北大学技術研究会」(全国大学から500名の参加、160件の発表)が開催され、技術系職員自身による主体的な技術研鑽の運動が発展してきている。

 待遇改善と組織改組に関しては、国大協第四常置委員会をはじめ、全国各大学において専門行政職適用に向けた運動が展開されたが、97年4月に人事院から「条件が整っていない」との理由で大学への適用は実現されなかった。文部省は同年11月、文部省訓令33号を発し、行(一)内での「技術専門官」「技術専門職員」の職名による専門官制度の導入が実現して、若干の待遇改善がはかられた。しかし、事務系職員に比してきわめて不十分であり、技術専門官定数の拡大が必要である。現在は専門官定数の拡大の検討とともに、将来展望がもてる技術部を構築する検討が進められている。形式的な現行のライン制組織を改組し、研究・教育の実態に対応した高度の専門技術を提供することが可能な組織の構築に向けて、検討が進められている。すでに、熊本大学工学部・電気通信大学・岩手大学・静岡大学などでは改組検討が議論され、新たな技術部の試行が進められている。

 九次に及ぶ定員削減のターゲットは、これまでおもに組織をもたない技術系職員であったが、さらに、2001年からは第十次定員削減が実施されることになっている。定員削減のなかで20年以上もの間、新入職員のない職場があり、このことが職場をいかに変質させているかを、当局は考える必要がある。さらに、当局はそこで働いている技術系職員の将来について熟慮しなければならない。長年培われてきた大学独自の技術は1、2年の短期間で修得できるものではなく、研究者との連携のもとにアイディアを出し合い作り上げた装置に、その道一筋の秀でた技術が培われている。これまでの定員削減の実施は、それらの技術の継承・向上を拒み、そこで働く技術系職員に対して将来展望を見失わせて、大学における技術の蓄積を放棄させようとしている。今こそ、研究・教育における技術の役割を再考し、大学当局は早急に技術系職員とともに新たな技術組織の構築の検討を行うべきである。

6.3.2 教務職員の解消を目指して

 教務職員の俸給表は教育職の適用をうけているが、運用上は技術職員と同じ扱いをうけている。しかし、多くの教務職員は教員に準ずる職務内容をもっているという、矛盾した位置付けの存在である。この教務職員は49年、新制大学の発足時に当時の副手を助手として任用し、その際、任用漏れとなった人の救済措置として暫定的におかれたものである。暫定的という曖昧な定義から、これまで各大学・学部においてこの職種の「柔軟な」運用が行われ、「便利な制度」として利用されてきた。また、技術系職員の待遇改善策として、当時行政職よりも有利な俸給表の教育職を適用する場合も多くみられた。このような安易な取扱いが、本来的にもっていた矛盾をいっそう拡大し、事態を複雑にし、その解決が永く放置されてきた一因である。

 教務職員に対する待遇改善の運動は、88年、日教組大学部が教務職員を「基本的に2級(助手)に昇格させる」ことを柱とした「教務職員問題の解決のために」を提案したことで大きく前進した。この運動の高まりから、91年の国大協総会では「教務職員問題に関する検討結果報告」が審議・承認され、同年、文部省より「教務職員から助手に移動した場合の俸給月額の決定について」が通知されることによって、全国的に「空き定数」の運用や概算要求などによる待遇改善が大きく前進した。

 職組は、教務職員問題の抜本的解決と当面する待遇改善に向け、対策委員会を中心に取組みを行ってきた。99年4月現在、全国の国立大学に在籍する教務職員は802名であるが、東北大学にはその1割を超える80名(2000年7月28日現在)が在職し、その数は他大学に比べ群を抜いている。

 職組は、全教務職員の実態把握とその組織化に向けて実態調査を行い、それに基づいて学長に提出する待遇改善要求署名および部局長に対する問題是正に向けた要請活動などに取り組んだ。これは92年3月からの退職者に対して2級昇格措置が取られるなどの待遇改善につながった。しかし、いまだに退職時期などにおいて多くの問題を残しており、さらに、教務職員を含めた学内における教官定数運用が明確ではなく、部局の教務職員が予算定数に組み入れられていないため、概算要求による上位級へのふりかえが困難となっている。

 97年9月の総長会見で、阿部総長は「教務職員は仙台弁で言うと“いずい”存在だ」、「方針として助手にするのでよいと思う」と述べ、これまでの総長に比べ一歩踏み込んだ発言を行い、東北大学における新たな解決策を提案した。現在、これまで予算定数のなかった部局に対し新たな定数の配分を行い、概算要求による解決の道を探っている。技術職員の組織化がはかられ、待遇改善に大きな進展がみられた現在、教務職員は教員と技術職員の間に埋没した展望のない状態が続いており、早急な解決が求められている。


第7章 国立大学の独立行政法人化をめぐって

7.1 国立大学の独立行政法人化問題

7.1.1 独立行政法人制度の背景とその制度設計

 80年代以降、西側先進国の多くで、ふくらむ財政赤字の解消を目的とした「行政改革」が進められた。それらの政府は徹底した規制緩和と法人税減税により企業活力を上げ、一方で福祉・教育の減量と公務員の削減によって中央政府の歳出を押さえ込む政策を採用した。さらに、政府の事業部門に企業経営の手法をもち込んで効率化とコスト削減をはかり、財政赤字の解消を目指す市場主義的手法を中心とした政策が、多くの西側先進国で取られた。しかし、こうした施策は、財政状況の一定の改善をしたものの、貧富の差の極端な増大、教育や医療の荒廃、それらを背景にした社会不安の高まりをも生じさせた。

 日本の「行政改革」もおおむねこうした市場主義の文脈に沿って進められてきたが、特有の利権構造を温存しようとする圧力によって、掲げた目標がかなり変質していることが欧米諸国と異なる点である。

 中央省庁再編、行政の減量、内閣機能の強化を柱とする現在の「行革」は、96年橋本内閣による「行政改革会議」に始まる。独立行政法人制度は行政の減量の一方策として、中央政府の業務の一部を公的法人に移管するものであり、英国のエージェンシー導入を参考にしたといわれている。しかし、エージェンシーは運営の透明性の確保を主目的とした制度であり、公務員としての身分は確保されていた。他方、わが国の独立行政法人制度の目的は行政の減量であり、そのために職員の身分は非公務員であることが基本である。さらに、組織は政府の外に出されて「独立」する一方で、主務大臣が長の任命・中期目標の指示・計画の認可・業績の評価・組織の改廃を行い、運営上の「独立」性は付与されないとされている。「行政の企画部門と実施部門の分離」という点から英国のエージェンシーとの類似性がいわれるが、法人化される省庁の機関のうち、行政の実施部門は車両検査と印刷造幣の2部門のみであり、その他の研究所、病院、美術館・博物館などは行政の実施部門にはあたらない。制度設計と適用部門の不一致や、主務省による強い監督は、この制度が設計の途中でこれまでの利権構造を温存しようとする圧力によって歪められてきたことを示していると考えられる。

7.1.2 文部省の方針転換と全国的な反対運動

 国立大学の独法化については、当初文部省は強く抵抗し、また97年、国大協は10月の声明に続いて11月の臨時総会で独法化反対を全会一致で決議した。その後、反対を表明した大学教授会も含めて、これらの反対声明は文部省の抵抗をバックアップする性格のものが多くみられ、大学人による闘いの結果ではなかった。こうしたなかで独立行政法人制度の設計を行った行革会議は、12月の最終報告で「大学の自主性を尊重しつつ、長期的視野に立った検討を行うべき」とし、事実上検討対象から国立大学を除外した形になった。

 しかし、一度棚上げされた国立大学の独法化が、98年に発足した小淵内閣の国家公務員20%削減政策によって再浮上した。これは橋本内閣から小淵内閣にそのまま引き継がれた行革推進本部が、98年11月「中央省庁等改革に係る大綱事務局原案」を示し、国立大学の独法化に関して「独立行政法人化の対象となる事務及び事業の検討を積極的に進めるものとする」としたことから始まった。小淵内閣の文部大臣有馬朗人氏は、当初国立大学の独法化には強く抵抗する姿勢をみせていたが、98年末からの数度にわたる太田総務庁長官との会談のなかで、「経済面は保証する」「国立大だけが無傷というわけにはいかない」「最終的にはこちらに決定権がある」などと迫られて、その態度を変えたとされている。さらに、99年1月に自由党との政策合意のなかで削減が25%に嵩上げされ、うち15%を独法化によって達成するとされた。99年1月の「中央省庁等改革に係る大綱」のなかでは、「大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、2003年までに結論を得る」と期限を切って明記されることとなった。

 99年前半では、独法化問題の焦点は主として「定削か、独法化受入れか」の二者択一を迫るものであり、この立場を端的に示したのが藤田宙靖氏の論文(ジュリスト:99年5月)であった。しかも、この時期に独法化しなければ、10%どころか25〜30%の定員削減を消化しなくてはならないという、半ば脅しにも似た言動が伝わっていた。こうして、99年6月に国立大学長会議において有馬文相が「できる限り速やかに検討を行いたい」と述べ、文部省として、行革法に基づく定削の決まる2000年夏までに結論を出す方針を表明した。

 99年通常国会で独立行政法人通則法が成立し、2001年から研究所などを中心に89機関、74,000人を独法化することが決定された。文部省はこの間、数度にわたって、江崎玲於奈氏・吉川弘之氏・小田稔氏・阿部謹也氏ら8人をメンバーとする文相の私的懇談会を開催し、そこでは国立大学への通則法の直接適用は悪影響を及ぼすとする発言が相次いだ。これに対して文部省は、抜本的見直しではなく、種々の特例措置を設けることで対処することとし、その項目のとりまとめを行った。これらは99年9月の全国学長・事務局長会議で、「国立大学の独立行政法人化の検討」として示され、学長の任免権を事実上大学側におく、評議会・教授会などの組織を維持する、学長や教職員の身分は国家公務員のままとする、教育・研究にかかわる評価は、「大学評価機関」が独自に行う評価の結果をふまえて行うなどの措置が検討されるとしたが、制度の基本は通則法にしたがったものであった。文部省は、2000年4月までにこの案に沿って独法化を決定したいとし、各地でブロック学長会議を開き、説明と意見聴取を行うなどしたが、次の2つの要因から思惑通りには進まなかった。

 第一に、大学人の大きな反対の声が上がったことである。千葉大学文学部教授会の声明を皮切りに、文部省の姿勢転換後、各大学で学部教授会・講座・教官有志による独法化反対、あるいは疑念を表明し慎重な対処を望む声明や要望が相次いだ。さらに、大学横断的組織としても国立大学理学部長会議・国立17大学人文系学部長会議・国立大学農学系学部長会議などが声明を発表した。これらは97年10月段階で国大協・各大学教授会などが上げた声明とは異なり、大学教員による自主的な声明であり、文部省は大きな衝撃をうけた。また、学会でも歴史科学協議会・地学団体研究会全国運営委員会・日本数学会理事会・日本天文学会などが反対声明を公表し、さらに、多くの大学教員が個人で種々の媒体に論説を発表し、独法化反対を訴えた。

 各大学の職員組合や全大教は、独法化反対を最大の課題として取り組み、99年秋にはほとんどの組合が声明や学長宛要望書を発表し、また学習会を開き独法制度の問題点を指摘した。全大教の署名運動は、99年晩秋から各地で本格的に取り組まれ、258,191名の署名となり、全大教として過去最高の集約数となった。職組では、県国公・生協などとの共同や、初の街頭宣伝行動などにより、過去の実績を大きく上回る3,822名の署名を集約した。また、多くの職員組合や教員有志組織が、地元紙への意見広告掲載や地方議会への働きかけを行い、いくつかの自治体では国立大学の独法化を見直す、あるいは慎重な検討を望む意見書が採択された。こうした反対運動では、先の教員任期制反対運動とならんでインターネットが積極的に活用された。新潟大学の教員有志が運営する大学改革メーリングリスト(reform)、全大教が運営する高等教育フォーラム(he−forum)の2つのメーリングリストを中心に情報が連日発信され、現在も続いている。首都圏の教員有志が運営する独行法反対首都圏ネット、全大教近畿、北大辻下氏、そして東北大職組のホームページでは、これらの情報や新聞雑誌記事、その他ネット上の情報を逐次掲載した。また、各大学の職員組合でも積極的にネットに情報を発信した。さらに、多くの大学教員・学生・院生らがウェブページ上で意見表明を行った。こうして、国内のみならず海外からも最新の情報に容易にアクセスできる状況を作ったことは、反対運動を盛り上げる重要な要因だった。

 第二には、文部省の示した「検討の方向」が総務庁−行革本部にうけ入れられなかったことである。99年の後半、文部省は何度も総務庁との間で国立大学を独法化するにあたっての条件(=特例措置)について水面下での折衝を行ったが、独法制度の根幹に関わる部分の変更はできないとして、ことごとくうけ入れられなかったといわれる。また、通則法にかわる新たな法人制度の設計については、内閣法制局が難色を示した。

7.1.3 「自民党提言」

 全国の大学人から強い批判を浴び、官僚間の折衝にも失敗した文部省は、次に政治的解決をはかった。読売新聞は2000年3月6日付けで「自民党教育改革実施本部『高等教育研究グループ』(主査=麻生太郎元経企庁長官)は国立大学を独立行政法人化する政府の方針を見直し、国立大独自の新たな枠組み「国立大学法人」(仮称)の検討に入った」と報じた。麻生委員会発足に際して、文部省官僚による当初案を文部省から全国立大学の事務局長宛に電子メールで報告し、議事要録も送付されていることから、この報道は裏付けられた。さらに、1政党内部の小グループの案にすぎない麻生委員会の「提言これからの国立大学の在り方について(案)」が文部省によって各国立大学に配信され、大学によってはこれを全教員にまで配布するという異常な事態が生じた。この文書は自民党文教部会・文教制度調査会で了承をうけて公表された。この案の特徴は、国立大学の独法化を、行革ではなく「大学改革」の文脈に位置付けていることである。行革の一環として大学がリストラされることへの批判をかわすことがその最大の狙いであったが、一方で政府がこの間進めてきた大学を含む教育の市場主義的・国家主義的再編を行ううえで、独法化が利用できるとの判断によるものでもあろう。

 その内容は、通則法の枠組みではあるが、他省庁の独法のような設置法ではなく、人事・評価などに特例を認めた「特例法」を制定し、「国立大学法人」とするものであり、同時に、高等教育・学術研究への公的投資の拡充に1項をあてていた。この内容は文部省の「検討の方向」よりも後退したものであり、多方面から批判が行われたが、「独法化を見直し」「大学の特性に大幅に配慮」などとした新聞報道にも影響されて、一般の大学人のなかでは好意的にうけ取られた部分もあった。麻生委員会「提言」は、大学を野放しにせず、官僚のコントロール下におくべきであるとする国家主義的なものであり、これと文部省の「省益」が一致したところから生まれたとも考えられる。一方、自民党内の市場主義を是とするグループは、大学については最終的には民営化(もしくは地方移管)を考えており、さきの「提言」との間で党内調整が必要なことは明らかであった。調整は行革推進本部幹部会とのすり合わせを経て行われ、5月9日「提言これからの国立大学の在り方について」が公表された。この提言は、学長選考が全学的に行われているために「適任者が選ばれていない」、教授会は「『自治』という名の下に既得権の擁護に汲々と」しているなどと決めつけた。また、「学問の自由」を否定し、「国は国策としての学術研究や高等教育」の観点から各大学に「相当の関わりを持つ」必要があり、「国の責任において、積極的に再編統合を推進すべきである」とする一方、当初から独法化の最大のメリットと喧伝されてきた規制緩和については、3月案で「法人化により、国の様々な規制が弱まる」としていたものを、わざわざ「大学運営をめぐる日常的な国の規制が弱まる」と限定した。さらに、高等教育への公的投資の拡充をうたっているものの、その具体策はまったく示されず、地方国立大を「地域の産業、文化の振興などに果たしてきた役割を十分評価し、その維持強化を図るべきである」ともち上げた一方で、「国立大学といえども……選別と淘汰もさけられない」「国立大学の再編統合の推進」として自己矛盾を露呈している。

7.1.4 国大協の対応と「調査検討会議」

 文部省は、2000年5月国立大学学長等会議において、独立行政法人制度の枠組みを前提に「調整」を行うことで国立大学を法人化すること、「調整」の具体的内容を検討する「調査検討会議」を設けることなどを骨子にした法人化の検討方針を明らかにし、2001年度中に結論を得るとした。一方、国立大学協会の態度は、97年の反対決議以降、その姿勢を公式には変えていなかったが、「特例法」の動きなどの情勢変化を念頭においた独法化問題に関する検討を、松尾稔名古屋大学長を中心に水面下で行った。その内容は独法化に反対であることを前提としながら、政治的状況からこれが不可避となった場合の条件について検討したものであった。この報告をうけて、99年6月の国大協総会では第一常置委員会(委員長阿部博之東北大学長)にこの問題に関する検討を正式に付託し、9月にはその中間報告がなされた。報告は法人化に反対としながらも、法人化する際の検討事項を上げ、法人化が避けられないとの前提に立ったものであった。これをうけた国大協定例総会では統一した見解をまとめるには至らず、国大協を構成する各学長にさまざまな意見のあることが報道から知られた。それは「一定の条件さえ付けば(とくに財政的な条件が満たされれば)積極的に法人化すべきとするもの」、「一定の条件がそろえば法人化はやむを得ないとするもの」、そして「独立行政法人という枠組みそのものを拒否する」の3通りであった。このうちの多数意見は「政治的状況を考えると拒否し続けることは困難であるが、通則法そのものはうけ入れ難い、したがって大学が存立し得るだけの条件を引き出すことだ」とする第2のグループであったと思われた。第一常置委員会は、12月、各学長に「大学が具備すべき(譲れない)基本的要件」を問うアンケートを送付した。その結果は、1)大学の自主性・自律性・主体性・自治、学問の自由と、2)財政基盤の充実、に集中していたが、前者には、独法化による国の管理強化を危惧するものと、文部省の管理からはずれることによって自由度が増すと期待するものの両者が含まれていると考えられた。このような意見分布を考慮して、国大協理事会は、1)設置形態の白黒を問うような議論はしない、2)国大協を割るような議論は現状では好ましくない、3)第一常置委員会で個別事項の議論を深めていく旨を各学長に送付した。しかし、3月、地方国立大学の学長44名が、自民党宛の要望書「地方都市に位置する国立大学のあり方について」を発表し、地方国立大学が国によって支えられることの重要性と市場主義の一律の導入に警告することを強調して、言外に独法化の枠組みを強く否定する姿勢を表明した。

 このような大学側の訴えにもかかわらず、自民党麻生グループによる「提言」案がまとめられ、文部省が具体的な検討を開始しようとする情勢から、国大協執行部は条件付き法人化へと方向をかえていった。2000年6月に行われた国大協定例総会では、高等教育についての基本的コンセプトの検討の必要性など多様な意見が出されたが、結論的には1)通則法そのものの適用には反対、2)「設置形態検討特別委員会」の設置、3)調査検討会議へ参加し国大協の意向を反映させる、4)学術文化基本計画の策定を課題とする議論の場の設定を訴えるの4点を決定した。東京新聞はこれを「国大協が“法人化宣言”、積極検討の方針を確認」と報道した。

 文部省の「国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議」は、国立大学・公私立大学・財界・マスコミなどの15〜16名で構成され、2001年夏〜秋までに結論を得るとしていたが、実際には「行革」のテンポとの関係から2001年3月〜4月には基本的方向性を示すとした。一方、国大協は文部省の動きに対応する「設置形態検討特別委員会」を設置し、独自の検討を開始した。この委員会については、国大協が独法の枠組みによる法人化を許すか否かを決めるものとして大いに注目された。国大協は2000年11月の設置形態検討特別委員会において、「国立大学法人法という、通則法の範疇とは異なる枠組みで」考えていくことを了承し、さらに12月、「独立行政法人化として議論することは……適切ではない」と確認した。しかし、これら国大協の意向は、文部省が依然として独法化の枠組みに固執していることから予断を許さない状況にあり、また、仮に調査検討会議で独法を前提としない枠組みが示されても、その先に行革推進本部というハードルがあって、事態は決して楽観はできなかった。さらに、現在進められている「大学改革」においては、法人化はその一部分に過ぎず、独法化の議論とは別に、国立大学には評価と競争による淘汰、トップダウンの運営、任期制の大幅導入などが押し付けられており、これらを総合的に捉えた広い運動が求められていた。

7.2 独法化問題での学習会と声明

 98年10月に大学審議会によって「21世紀の大学像と今後の改革方策について−競争的環境の中で個性が輝く大学−」が答申され、またこれに伴い「学校教育法等の一部改正法案」が成立し、競争主義に基づく大学改革が明確に押しつけられた状況であった。99年1月に中央省庁等改革の大綱が決定され、2003年までに国立大学の独立行政法人化の結論が出されることになった。

 独立行政法人の内容が、「独立」というイメージから「自由度が増大する」「文部省の管理がゆるむ」などの幻想を少なからずの教職員に植え付けていた。とくに99年「ジュリスト」に発表された藤田論文が、「25%の人員削減から逃れるためには独法化しかない」と述べていることから、当初から条件闘争であるという意見が多かった。そのような状況を払拭するために、職組は先行して独法化が実施される農水省の実態を学ぶ学習会を開き、(1)今回の独法化が行革の一環であり、その本質はまさに数合わせでしかないこと、(2)独立法人は独立採算制を取るものではないこと、(3)イギリスのエージェンシーをイメージして立案されたが、それは本来単純な業務を能率よく処理するための組織形態であって、独法化は英国のエージェンシーとはまったく異なるものであることなどを明らかにした。その後の議論を経て、99年9月職組は声明「国立大学の独立行政法人化に断固として反対する」を発表した。また、学内における情宣活動、数回の街頭署名運動、記者会見などを行い、学内のみならず市民に広くこの問題を訴える活動を展開した。署名は職組としては過去最高の3,882に上り、全大教としては258,191の署名が集約された。

 当初、独法化に原則として反対であった国大協は、2000年6月、文部省の調査検討会議への参加を決め、事実上、独法化へのスケジュールに国大協が完全に乗った形となった。東北大学では、同3月に出された自民党文教部会提言の中間報告が事務的な経路で各研究室に配布された。これに対して職組は声明「自民党文教部会提言には大学の未来は託せない」を発表し、無定見に配布した大学当局に厳重に抗議した。6月には全大教中央執行委員を講師に学習決起集会を開催して、情勢分析を行うとともに問題点をさらに追究して特別決議を採択した。この間、他大学においては教授会などの反対の意見表明がなされ、学会等でも独法化を批判する行動が行われた。しかし、東北大学において、阿部総長は各部局に、各組織で意見の集約を行わないように指示を出し、その結果、独法化の議論は総長の諮問委員会のみで行うという異常な経過となった。東北大学は2000年秋までに結論を出すとしていたが、現段階においても大学としての意志表明すらできない状況である。自らの組織の存亡に対してまったく物をいえない東北大学の姿は、これまでの中央追随型運営スタイルの象徴といえる。

 国大協が調査検討会議に参加し、独法化の議論の舞台が文部省内に移った時期に、職組は国立大学の存在意義を地域という視点から捉え直す観点から、「シンポジウム地域社会と大学−仙台から国立大学がなくなる!?−」を開催した(主催、宮城県教職員組合協議会:宮城県高等学校教職員組合・宮城県教職員組合・宮城県私立学校教職員組合連合・宮城教育大学職員組合・東北大学職員組合、共催、日本科学者会議宮城支部)。このシンポジウムは、組合が率先して大学人と市民との開かれた討論の場を設けたという意義に加え、宮教大職組と一体となって企画・運営したこと、1998年の大学審シンポに引き続き宮教協と連帯した運動を展開できた点に大きな意味をもつものであった。この取組みを通して、単に地域に役に立つという即物的な、また狭い価値観で大学を捉えるのではなく、文化の発信源としての大学の学術および研究・教育を位置づける必要性を認識した。これは今後さらに職組が地域との対話を率先して行っていく必要性を明確にしたものであり、97年に職組が中心となって発足した東北オープンユニバーシティー(TOU)を継続的に市民と対話する運動として発展させることが重要である。独法化を阻止する闘いがこのような市民からの支持のもとでさらに発展することが求められている。


第8章 21世紀に大学らしい組合運動を

8.1 結成50周年記念行事

8.1.1 実行委員会体制

 97年1月、東北大学職員組合結成50周年記念行事企画委員会が結成された。記念行事の目的として、(1)東北大学職員組合が幾多の闘いや試練を経て今日の到達を築いていることを明らかにすること、(2)戦後50周年、日本国憲法制定50周年に続く、組織自身の大きな節目である結成50周年をさまざまな企画で祝賀しつつ迎えること、(3)激動する情勢のもとで運動の発展方向を明らかにするとともに、運動の原点に立脚した活動を創造的に強化し、それらを通じて、東北大学職員組合の組織強化拡大運動を推進することの3点を掲げた。また、その基本的構成として、今までの歴史を振り返る企画=「東北大学職員組合50年史」の編さんおよび「写真で綴る東北大学職員組合の歴史」の作成、将来に向けた展望を明らかにする企画=「東北大学職員組合結成50周年記念講演」、祝賀企画=「東北大学職員組合結成50周年記念レセプション」・「婦人部春のミニコンサート」・「文化的諸行事」の3つの柱を立てた。

 以上を具体化するため、次の委員会が設置された。

(イ)東北大学職員組合50年史編さん委員会

 基本的構成の企画を具体化するための編さん委員会は、本書刊行に向け作業を精力的に進めた。

(ロ)東北大学職員組合結成50周年記念行事実行委員会

 98年11月に第1回の委員会が開催された。事前の企画委員会での検討をふまえ、各支部・婦人部・青年部・退職者の会、その他各企画や運営に協力を得たい組合員など、幅広く実行委員を募り、執行委員会の全面的バック・アップをうけて発足した実行委員会であった。

8.1.2 行事内容

 企画した記念行事は一覧に掲げた通りである。誰でも気楽に参加でき、楽しめる企画が並んでいるが、とくに青年部と退職者の会が積極的に活動している。以下、中心的な3つの企画に限って述べておこう。

(イ)八嶋博人ヴァイオリン・リサイタル

 婦人部が例年開催して好評を博していた「春のミニコンサート」を、記念行事として位置づけたものである。

 八嶋博人氏は、仙台市生まれ、東北大学大学院工学研究科(精密工学)博士課程前期修了という経歴をもつ異色のヴァイオリニストで、北ドイツ放送ラジオフィルハーモニー(ハノーバー)の第1ヴァイオリン奏者を務めながら、ソリスト・室内楽奏者として世界各地で活躍している。研究室時代の八嶋氏をよく知る組合員もおり、記念行事にまことにふさわしい芸術家であった。八嶋氏は、4月3日付けで次のようなファックスを組合宛に送ってくれた。「このたびは、結成50周年記念に演奏の機会をいただきまして、ありがとうございます。大変に名誉なことであり、御皆々様に良い音楽をお楽しみいただけますよう、練習と勉強に励んでおりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。」リサイタルは、戦災復興記念館の記念ホールを会場として、午後6時半に開演し、307名の聴衆が、J.ケージの「ノクターン」から始まって、P.d.サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン作品20」までの6曲とアンコールの演奏を堪能した。

(ロ)韓国平和の旅

 退職者の会婦人部が企画したこの旅には17名が参加した。「観光コースでない韓国」へ、歴史・侵略・民族を知る旅として、初めての海外企画であった。ナヌムの家・従軍慰安婦歴史館、独立記念館、慶州ナザレ園等、参加者に深い感銘を与えた旅であった。帰国後、参加者は感想文集を作成した。その一節をここに載せておこう。「ナヌムの家でみた日本軍従軍慰安婦だった女性たちの絵には、彼女たちを犯した証として「日の丸」が描かれていたし、独立記念館でみた「日の丸」は侵した証だった。ナザレ園で出会ったもと日本人妻たち、玄関で「さよなら、さよなら」と大きい声でいつまでも私たちを見送ってくれたあの人たち。「さよなら」という言葉は何と悲しいあいさつだろうと声が出なかった。ナザレ園で会話した日本人妻の一人は、敗戦後韓国に渡り、すぐ朝鮮戦争を体験した。「戦争はもうこりごり」と。沢山の、そして複雑な労苦を背負った彼女たちに、慰めの言葉もみつからなかった。たしかな平和と友好を確立するために行動しよう。彼女たちと無言の約束をした。」

(ハ)記念式典・対談・記念レセプション

 記念行事の中心は、11月6日に仙台国際センターにおいて行われた。執行委員長・実行委員長挨拶のあと、小山貞夫東北大学副総長が来賓として挨拶を述べた。その一節「多くの問題について50年の歴史の中で一貫して教職員の生活向上・充実のために当局と話し合いが行われてきました。これら節目節目で東北大職員組合の果たしてきた役割は大きなものがあります。立場こそ違いますが、本学の発展のためにお力を尽くされ、50周年を迎えられたことに心よりの敬意を表したいと思います」が、職員組合と大学当局との50年間の関係の一端をよく語っている。

 記念式典のハイライトは、作家・井上ひさし氏と憲法学者・樋口陽一氏の対談「憲法、自由、大学を語る」であった。以下はこの模様を伝えた職組新聞「CORE」189号の記事である。「最初に、井上氏の戦後はまだ終わっていないという話題ではじまり、戦争責任の問題が現在の課題としてとりあげられました。その主題をうけて樋口氏が、第145国会での一連の法律制定はこの50年をなかったことにしようとする動きである、逆に、やりのこしたことをやってこそ次の50年につながると応えました。井上氏が改憲論者の日本だけが50年間も憲法を変えていないという主張を紹介し、憲法には歴史的に形成された変えてはならない個性というものがあると問題提起したのに対して、樋口氏がいまの改憲論者の論点が明治憲法制定時の、第一に君権を抑制し、第二に臣民の権利を保全することという憲法の意義に関する議論よりも後退するものであると指摘し、憲法が社会発展の道具立てとして歴史を貫く意義をもつことを強調しました。続けて樋口氏は、持論の4つの89年について、1689年のイギリス・権利章典、1789年のフランス・人権宣言、これらはデモクラシーを最初に出発したグループの典型的な記念すべき文章であり、次に1989年のヨーロッパ東半分の一党支配の解体は憲法原則の復権であり、同業者にもなかなか気付かれない1889年の大日本帝国憲法制定は後発近代国家が憲法をもったことであると解説しました。自由の問題では、近代の個人の自由ということと創造していく自由という面から対論された後に、樋口氏から『吉里吉里人』、『東京セブンローズ』など井上作品の思想について、両面の自由が通っていることと評が述べられました。最後に真壁委員長の参加した大学問題では、井上氏が国立大にアジア学部がないことを指摘し、樋口氏は独立行政法人化の問題に大学が打って出ることが大事であり、学問という本丸が肝心であると指摘しました」。

 国立大学の独立行政法人化が焦眉の問題になっていた時期だけに、一般市民にも公開されたこの対談は、大学の存在意義や学問の自由・大学の自治を考えるうえできわめて有意義であった。

 レセプションは会場を移して北川内生協食堂で行われた。現組合員はもちろんのこと、定年退職や転勤で東北大学を離れたかつての組合員も全国各地から駆けつけ、盛大なレセプションになった。対談を終えた井上・樋口両氏も参加して挨拶をした。青年部の太鼓演技で開会したあと、さまざまな分野で活躍したかつての組合員や現組合員の思い出話や決意表明、さらにはスライド上映などがなされたが、広い会場のあちこちで、さながら同窓会のごとく50年間に展開された活動の思いを語り合う輪がみられた。その輪はさらに未来への展望を語り、東北大学職員組合のさらなる発展を期待するものであった。

8.1.3 50周年記念行事一覧(1999)

5/8   渓流釣堀大会  退職者の会
5/14  ボウリング大会  青年部
5/20  学習会「ダイオキシンって何でしょうか?」  青年部
5/28  八嶋博人ヴァイオリンリサイタル  婦人部・実行委員会
6/12  講演会「いつまでも輝いて生きるために 聞いておきたい脳の話」  退職者の会・婦人部
10/6〜10/9 韓国平和の旅  退職者の会・婦人部
10/7〜10/10 戦没画学生「祈りの絵」展  支援
10/29  50周年記念日・組合誕生会  実行委員会
11/6  記念式典・対談・記念レセプション  実行委員会

8.2 組織強化・拡大の取組み

 職組は、組合員の長期漸減傾向を原因とする財政の危機的な状態を脱するために、97年度定期大会で緊急の課題として組織財政問題についての議論を行った。執行委員会は大会後ただちに組織財政問題検討委員会を組織し、職組の(1)組織強化・拡大、(2)財政の組み立て、(3)運動方針・運動スタイルについての詳細な検討を諮問し、同検討委員会は翌年4月に「組織財政問題検討委員会答申−組織財政問題の改善に向けて−」を答申した。本節ではこの答申に即して、職組の21世紀に向かっての組織強化・拡大の戦略と課題について述べる。

8.2.1 組織の現状

 職組では長期にわたって組合員数の漸減傾向が続いており、かつて1,000名を越す組合員を擁していた組合員数は漸減しており、それに歯止めがかかっていない現状である。これを反映して組合員の年齢構成が年々高まり、50才代がピークとなり、高齢化が進んでいる。定年退職による退会者は今後十数年の間、毎年20〜30名が見込まれていることから、このままでは組合員の減少がさらに加速するであろう。組織部は各支部と連携しながら、新入および転入職員は当然のことながら、これまでの勧誘から漏れていた未加入者を対象にしてパンフレット配付など組合員拡大運動を地道に進めてきたが、増加に転じるまでに至っていない。

 組合員の長期漸減傾向の要因のひとつは、九次にわたる国家公務員の定員削減により職員の新規採用が抑制されてきたことにあることに議論の余地はない。この新任職員の絶対数の減少は拡大対象者の減少を意味する。したがって、定年や転出による自然減の補充が十分にできない状況の下地となる。2001年から2005年に実施される第十次定員削減では、東北大学全体で200名以上の削減が予定されていることから、組合員拡大はさらに容易ではなくなると予測される。

 組合員減少のもうひとつの大きな要因には「組織率」の低下が上げられる。組織率低下には幾つかの背景が考えられるが、(1)東北大学が文部科学省内の一部局であり、大学当局との交渉で実現する要求事項には限界があり、多くは政府あるいは文科省が解決の権限を保有する要求である。この関係は、職組運動の成果をみえにくくし、これが組合の存在意義を実績で教職員に提示することを困難にしている。(2)度重なる定員削減や組織改編が職場の「多忙化」を進め、組合活動を行う精神的・時間的な余裕を見出し得なくさせられている。(3)そしてより競争的な環境が作られていく昨今の職場環境のなかでは、教職員が連帯することよりも「競い合う」ことが「生き残り」に有利という判断が蔓延し、連帯互助を柱とする労働組合運動から距離をおく傾向が強まったことが指摘できる。これらは、組合活動が教職員にとって必須のものとして理解を得るための大きな障害となっている。

 以上のような定削と組織率低下に起因する組合員の減少は、組合員の志気を低下させると同時に財政基盤をも破壊する。そればかりか、東北大学の教職員を代表して当局との交渉にあたる団体としての資格を問われかねないといった、深刻かつ危機的な状況を組合活動にもたらすものである。職組が新世紀を迎え、みのりある活動を行ううえで、組織率向上と組合員数拡大は待ったなしの課題である。

8.2.2 いわゆる組合離れと労働組合への新たな期待

 労働組合の組織率低下、いわゆる「組合離れ」は全国的傾向である。この原因として、高度経済成長の終焉とともに、労働者の切実な要求が実現されにくい経済動向に変化したことに加えて、労働運動に労使協調路線が急速にもち込まれ、資本との無原則的な妥協が横行し、労働運動自身が組合員の信頼を失い、一般労働者の支持を失ったことが上げられる。労働省がまとめた「2000年労働組合基礎調査結果」では、全国の労働組合員数は6年連続で減少し、組織率も過去最低の21.5%となっている。

 「組合離れ」の原因を探るうえで次の調査結果は興味深い。青年労働者を対象としたある大手新聞社のアンケートでは、青年の労働組合に対する期待は、賃金・労働条件にほとんど限定されている。それ以外の運動に対する期待、とくに「政治課題」に対する期待が極端に低く、「期待しない」あるいは「関わるべきでない」と答えた者が6割近くに達した。これは従前の労働組合の「政治課題」に対する取組みが支持をうけていないことを示したものである。青年達は「財政構造改革」や「日米防衛協力の指針(新ガイドライン)」問題など狭い意味での政治問題に対して関心が低いが、諌早湾干拓や従軍慰安婦、HIV訴訟など環境や人権・福祉などの問題には、政治問題を含むことを意識したうえで強い関心を示しているという。青年労働者のこうした政治・社会問題に対する関心の変化を組合運動に反映させる課題の追求は、組織率を上昇させる活路であると考えられる。同時に、労働運動が果たす社会全体にかかわる改善の成果は、個人の利益に必ずつながることを明確に述べ、働く側から税金・社会保険などの制度の不備などについて主張することの意義を青年労働者に訴える必要がある。

 現在はバブル崩壊後の深刻な経済状況のもとで、倒産やリストラによる失業者が増加し、完全失業率は5%、失業者数は300万人台の大量失業の時代である。雇用はあっても、正規労働者が減少し、派遣・有期契約・臨時、アルバイト・パートなど、不安定な雇用者が増加している。かつては、組合加入資格がなかった管理職が組合結成をしたり、インターネット労働組合(ジャパンユニオン)が生まれるなど、新たな組合の結成の動きが注目されている。これは一旦は低下した労働者の連帯の必要性が新たな状況のもとで再び生じていることを物語っている。雇用不安の状況がさらに数十年の長期にわたって続く可能性が予測され、国と地方自治体が抱える財政赤字の処理の仕方によっては、恐慌やインフレを招来する可能性があると報じられている。こうした不安定な状況のなかで「労働者の団結」という組合活動の原点が労働者の大きな支えになり、労働組合運動の高揚が起こり得ると確信できる。

8.2.3 大学における組合の役割と存在意義

 大学は大別して教員・技術職員・事務職員によって教育・研究の機能を果たしている。教員はその専門が多様であるが、教育・研究に従事するという職務内容では同一の職層である。しかし、技術職員は看護を含む医療から実験装置の整備運用、動物飼育などきわめて多様な職務と組織形態をもち、事務職員は一般行政事務や図書資料の整理運用など多岐にわたっている。したがって、統一された要求を追求できる一般の労働運動とは異なり、大学の労働組合は職種の専門性に起因する多様な要求に取り組むことが求められている。さらに、教員は基本的に自律的な職務であるが、技術・事務職員はともに官僚組織のなかにあって業務命令による職務の遂行がなされる場合が多い。このように同一の組合に職務内容のみならず職階に基づく上下関係の強さなど、「職務に対する意識の違い」をこれほど大きく包含する労働組合は少ない。大学は教員とそれを支援する職員の共同によって大学の機能を果たし得るが、教員としての要求と一般事務職としての要求が必ずしも一致しない場合、教員と現場の技術・医療職員とが対立関係に立つ場合すらある。したがって、大学の労働組合において、組合運動の中心をどこにおくのかという命題はきわめて重大な課題であり、その命題は大学の構成員が一致できるものであることが必須である。これまで、大学教職員運動は「国民のための大学づくり」をその一致できる命題として確立してきた。これは大学が国民から付与されている役割を端的に述べており、この観点は教職員の勤務条件や生活の改善・向上に向けての闘いおよびそれを通して教育・研究の発展を期す運動に貫かれてきた。

 職組の新しい試みとして97年から「東北オープンユニバーシティー」(TOU)がスタートした。TOUは、総合大学としての東北大学に永年にわたって蓄積されてきた知的資源を広く社会に還元するという役割を果たしている。市町村など地方自治体との共同による企画が組織され、行政や大学という枠を超えて広くその対象が拡大されている。このような活動は、大学職組ならではのものとして、各方面から高い評価を得て大きな話題となった。同時に、職組が活動の中心的な命題としている「国民のための大学づくり」が開花した、一つの典型である。これは職組が国民から何を期待されているかを明確に示しており、今後の組合活動の発展・強化のために取るべき方向を示唆している。換言すれば、職組は「教育・研究を直接担う教員と、それを技術的あるいは事務的な面から支える職員の労働組合」という性格を全面的に展開する契機になる意義をもつことを示している。環境問題や地域の医療の問題など多くの分野の連携のもとでその分析と解決が求められている今日、職組が大学内でさらに力をつけ、奮闘することが期待される。

8.2.4 組織強化・拡大の戦略と課題

 組合員数は、組合員の志気や財政基盤と深く関連するだけではなく、当局との交渉にも大きく影響する。近年、組織率の低下が続き、職組の深刻な問題となっている。さらに、組合員の定年退職による退会者が一定数あることから、組合員の拡大は急務である。

 国立大学の独立行政法人化の動きに代表されるように、大学をめぐる情勢が急激に変化することが予測できる。そのようななかで職組が学問の自由と大学の自治をまもり、教職員の要求を変化のなかに実現させていくことは「国民のための大学づくり」を掲げるものとしての責任であるといえよう。

 この課題を達成するためには、21世紀における職組での組織強化・拡大の成功は不可欠である。これまでの運動の蓄積を創意工夫によって新たな運動に生かし、教職員の今日的な意識を探り、とりわけ青年層にとって魅力あるものにする新しい運動の方策を模索することが必要である。「数は力なり」とした結束力を誇示する運動形態に加えて、個々の発想が十分に生かされる活動を中心に据えた「個の充実」を重視した要求実現の闘いを具体的に組織するなど、活動スタイルの研究が必要である。いわゆる「組合離れ」は、集団としての組合では「個人」が力を発揮できないという誤解に基づいているといわれ、従来の概念を脱した新たな運動の創出はこれからの組合員拡大に必須である。

 これらに加えて、次の視点を具体的に現実化することが組織強化に役立つと思われる。

(1) 目に見える活動を目指す

 研究・教育環境は定員削減による労働強化および施設の老朽化・狭隘化が進行し劣悪である。賃金や待遇に対する大きな要求があり、また、非常勤職員やパート職員など劣悪な雇用条件のもとで勤務している不安定雇用の職員が年々増加している。しかし、これらの問題の多くは、大学当局との交渉だけでは解決できず、そのために一般の教職員が組合運動に対して無力感を抱き、組合員にも徒労感を生み出す要因になっていた。これに対して、我々はこれら諸問題について全大教や国公の運動がどのような方針で臨んでいるのか、また我々の要求に対して政府や文部科学省がどのような回答をしているのかという、組合活動の内容をこれまでとは異なる新たな試みで、教職員が理解し易い形と表現で示す工夫が必要である。

(2) 大学の組合ならではの社会貢献を行う

 最近、組合とは直接つながりをもたない市民や学生などによる市民運動やボランティア活動がさまざまな分野で盛んになっている。これは、何らかの形で社会に貢献したいという意欲をもった人々が増えていることを示している。職組にも、自分のもっている知識や技能を生かして、何らかの社会的貢献をしたいと思っている人々が少なからずいるであろう。このような意欲をもつ組合員を発掘し、新しい活動に取り組んでもらうことができれば、組合運動の活性化につながるであろう。とくに、職組が多様な職種の組合員から構成されており、多様な知識や能力をもった人々の集合体であることを考えれば、学際的でユニークな形の組合運動が可能であると考えられる。


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