2001.11.30発行
東北大学職員組合教文部 発行
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国立大学における「独立行政法人化」問題は、9月27日に文部科学省の調査検討会議から「新しい『国立大学法人像』について」(以下「中間報告」)が提示され、新たな局面に突入しました。それから2ケ月経ち、事態はますます混迷しているようです。本号では、この2ケ月間の各方面の動向を整理し、職員組合としての方向性を示していきたいと思います。 |
「中間報告」が発表されると、各方面で検討し反対する運動が起こりました。10月5日には東京で「政治家・市民・学生・大学教職員による討論集会」(主催:国立大学独法化阻止全国ネットワーク)が開かれ、105名が集まり、東北大学職組からも副委員長1名が参加しました。参加者の6割くらいが学生・院生で他は教職員らしき人々が多かったということです。以下は、その集会決議です(http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/wr/wr-72.html#[72-1])。
私たちは2001年10月5日に衆議院議員会館に集い、国立大学を「独立行政法人」化することの意味、それが大学と社会に何をもたらすかについて3時間にわたって詳細に検討しました。国会議員、大学の教職員、大学院生、学生がそれぞれ意見を述べ、あるいは議論に参加しました。その結果、国立大学の「独立行政法人」化は、「独立」という名称とは逆に、大学の独立性を高めるものではなく、むしろ大学を文部科学省に従属させるものであり、大学の自治、教育と研究の自由を奪うものであるという認識に達しました。
まず、独立行政法人制度の重要な問題点を要約すると次のとおりです。このような制度は、1997年10月に当時の文部大臣が記者会見で発表したとおり、「大学の自主的な教育研究活動を阻害し、教育研究水準の大幅な低下を招き、大学の活性化とは結びつくものではない」と判断されます。それにとどまらず、この政策がもし実行されれば、大学の自治を損ない、教育・研究の官僚支配をもたらす恐れが極めて大きいでしょう。したがって憲法23条、教育基本法10条に違反するという重大な懸念があります。
- 大学の「目標」を行政機関が指示し、「計画」を同じく行政機関の許認可事項とする制度である。これは諸外国にも例がない。
- 「第三者評価」と称して実は行政による評価がなされる制度である。
- 現在のような国会による法律改正でなく、大臣の判断で個々の大学の存廃が左右される制度である。
- 「効率性」の観点を優先させる制度である。
さらに、大学の自由が奪われることは社会全体の自由が奪われていくことにつながり、それは日本社会が危険な方向に向かうことにもつながるのではないか、との懸念が参加者の中から出されました。
先月27日に出された文部科学省の調査検討会議「中間報告」を概観すると、そこでは学生の勉学条件や諸権利についてはほとんど議論されておらず、また、ユネスコの「高等教育世界宣言」(1998年)が求めている、大学の運営における学生参加については全く考慮の外であることが判明しました。
以上のことから、集会は、文部科学省は国立大学の「独立行政法人化」の方針を撤回するべきであると考えます。
集会では文部科学省のいわゆる「遠山プラン」についても議論されました。そして、これは独立行政法人化の先行実施とも言うべきもので、大学へのあからさまで直接的な官僚支配であるとの意見が出されました。
集会は、国民の皆さん、すべての会派の国会議員の皆さん、メディアの皆さんに訴えます。国会に出すべき法律案さえ存在しない今日、国立大学の独立行政法人化がほぼ決まったことであるかのように見なしたり、報道したりすることをやめ、この制度の中味をきちんと検討され、憲法や教育基本法というわが国の法制度の基本に照らし、また教育行政と大学の実態に照らしてこの問題について判断されるようにお願いします。
また、国立大学協会や国立大学の教職員の皆さんに訴えます。文部科学省に追随するのではなく、そして役所への「アカウンタビリティー」ではなく、「国民全体に対し直接に責任を負う」という教育基本法の理念にふさわしい、本来のアカウンタビリティーについて真剣に考えていただくようお願いします。
2001年10月5日
また佐賀大学の豊島耕一氏は、この集会のレジュメの中で、以下の「管理運営面の改革の重要ポイント」を挙げ、コメントしています(http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/wr/wr-71.html#[71-9])。
1.文部科学省と国立大学との関係の正常化
法に根拠を持たない文部科学省による大学支配が行われている。これが大学の「独立」性を阻む最大の要因である。これを法律どおりの関係にもどす。「天下り」を廃止し、大学事務官の人事権を大学が持つ。
2.大学予算編成権の文部科学省からの分離
大学が文部科学省にすべて従う理由は、実際にか心理的にかは別にして「概算要求で自分の大学が不利になる」ことである。これを取り除くため大学と政府の間の独立した中間機関が国からの資金の配分を行う。
3.大学運営への学生の関与
数多い学内の委員会のいくつかに学生代表を入れる。少なくとも「運営諮問会議」には学生代表を複数名入れる。
4.「運営諮問会議」への市民の参加
現在、「あて職」システムによって財界や権力者、有力者によって構成されている「運営諮問会議」を、ふつうの市民の意見を大学運営に反映させる制度に変える。
5.大学評価は自由である。ただし政府による評価は認められない。ましてこれと予算とを結びつけてはならない。
先月27日に文部科学省調査検討会議の「中間報告」が出されたが、これと国大協の、この問題を検討する委員会のメンバーとを比べてみると、これらがおよそ相互に独立した委員会ではないことが明らかになる。すなわち、国立大学協会の「設置形態検討特別委員会」の28人のメンバーのうち24人(86%)が文部科学省の「調査検討会議」の委員を兼ねている。これは委員会のクローニングでありしたがって出てくる答申もクローン答申であろう。このようなやり方は、「衆知を集める」という考えとは正反対の、談合精神を基盤とした「衆論の整列化」とも言うべきものであろう。
「文部科学省の案に国立大学の意見を反映させる」という口実で国大協はこの委員会への参加を正当化した。しかし結果的には、24人のメンバーは文部科学省の委員会の中で財界の委員などから「情勢の厳しさを認識」させられ、逆に文部科学省や財界の意向のメッセンジャーになったでのあろう。
このように、大学の自治、学問の自由に責任を負うべき国立大学の学長らがこれに背こうとしているとき、もはら彼らに事態を委ねるわけにはいかない。彼らが自ら自治を破壊しようとしているとき、大学関係者はもちろん、一般国民もこれを座視していてはいけないだろう。すなわちなん人もこれを批判するのを躊躇してはならないだろう。
「中間報告」が発表され、改革の方向がより具体化されたことにより、マスコミの論調も批判的色あいを強めました(以下http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/wr/wr-73.html#[73-0-8]参照)。毎日新聞社説(9月28日)は、「独立行政法人のもとでの論議にはやはり限界がある。報告は過渡的なもので、改革のゴールではなく出発点と考えるべきだろう」と記しています。西日本新聞のコラム「直言曲言」(9月30日)は、「気になるのはこういう“改革”が、大学の本来の役割を果たすのに支障にならないか、という点だ」として、水俣病の病像解明を果たした熊本大学医学部の例を挙げています。朝日新聞社説(10月1日)は、「これが規制緩和なのか」というタイトルを掲げ、むしろ規制強化につながる内容を批判しています。北海道新聞社説(10月5日)は、法人化が「文部科学省の管理が強まる余地を残している」点と「地方切り捨て」につながる点を指摘しています。他にも、山陰中央新報社説(10月5日)は「中途半端な自主性の確保」、南日本新聞社説(10月6日付)は「国の関与が見え隠れ」と題し、「中間報告」の文言とは逆に、自主性・自律性の発揮ではなく、文科省の規制が強まることへの批判が強まっています。沖縄タイムス社説(10月11日)は、明確に「計画の練り直しが必要」と述べています。
国立大学農学系学部長会議(全国農学系学部長会議と改称)は、10月17日に「新しい「国立大学法人」像について(中間報告)に対する意見」を発表しました(http://vert.h.chiba-u.ac.jp/kanko/buchokaigi/105_all.htm)。そこでは、5点にわたって、「中間報告」に対する批判的意見が提起されています。
全国28の地方国立大学長は、10月19日に文科省で記者会見を行い、ネットワーク化と協力原理に基づく、「国立大学地域交流ネットワーク」の提言を発表しています。
なお、読売新聞が、8月1日から9月19日にかけて行った「大学改革 全学長アンケート」でも、法人化問題については、「行財政改革に端を発したもので、大学の理念とは相いれない」(京都教育)、「大学運営の自由度や自主性の保障が不可欠であるが、現状の法人化構想では不十分」(神戸)、「授業料値上げ、地方国立大学の切り捨てにつながる」(宮崎)、「独立とは逆に、本省による監督が研究・教育にまで大臣の許認可を求めるなど、極めて問題」(宮崎医科)、「現状では制約が多すぎる」(京都)、「学問の基礎研究を軽視する危険性を帯びている」(滋賀)と、問題点を指摘する声が強く出されました。
また2001年10月16日付の読売新聞は、ノーベル賞受賞者の野依教授に関して「政府の総合科学技術会議が設けた『50年間でノーベル賞30人』の目標については、『国がそんなことを言うのは不見識きわまりない』と強く批判。『ノーベル賞はオリンピックの金メダルとは違う。選考機関がどの分野を重要と認めるかはきわめて主観的なことで、研究者の努力だけではどうにもならない』とした。必要性が叫ばれている産学協同についても、『大学が何か隠し球を持っていて、それを産業界に渡せば一気に事業化できる、と思ったら大間違いだ。日本の産業に元気がないのは、創造力が足りないからだ』とバッサリ切り捨てた」と報じ、政府の近視眼的教育「改革」を批判しています。
文部科学省は10月29日締切で「中間報告」への「意見書」(パブリックコメント)を受けつけることを表明しました。全大教は「中間報告では大学・高等教育機関への民間的経営手法と発想の導入が最善の道と強調されている。しかし、社会における公共的な知の生産というその役割から考えて、学問の自由と大学の自治こそもっとも重視されねばならない」という視点にたって、「意見書」をまとめています。
(http://www.zendaikyo.or.jp/dokuhouka/zendaikyo/0110iken/mokuji.htm)
こうした「中間報告」への意見表明を行った団体には、管見の限り以下のものがあります(個人等での意見表明は除く。http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/01/a29-pcomments-list2.htmlによる)。
上記の状況の中で、東北大学職員組合も「独法化」問題にとりくみました。まず10月22日に教文部4名と各部局教員の組合員8名の参加による拡大教文部会を開催し、今後の対応を協議しました。その要点は、以下の通りです。
その2日後に中央委員会が開かれました(10/24)。教文部に対し多くの建設的な意見が寄せられ、とりわけパブリックコメントについて、ある委員から独法化反対の意見が強く表明され、別の委員から29日の締切前ではなく26日朝までに作成し国大協参加前の総長に渡すのが有効という指摘をうけました。教文部では、そうした提言に沿って、以下のようなパブリックコメントを作成し、26日に阿部総長に届け、29日には文部科学省に提出しました。また同29日の国立大学協会において、東京大学職員組合に依頼し、同組合の御厚意により配布されました。
「中間報告」に対する東北大学職員組合の基本的見解
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なお、この外にも組合員個人としてパブリックコメントを作成・提出された方が、小田中直樹(経)・片山知史(農)・木村和彦(農)・高橋礼二郎(多)など複数いることを付記いたします。
11月29日のNHKニュースによれば、「中間報告」に対し150の意見(パブリックコメント)が寄せられ、整理が終わったので調査検討会議を3ヶ月ぶりに再開するとのことです。12月19日には、残されていた課題の「運営組織」「身分」について、本格的な検討を始めるとのことでした。
国立大学協会(以下「国大協」)の長尾会長は、10月1日に「国立大学協会長談話『新しい「国立大学法人」像』の中間報告等について」を発表しました。そこでは、「中間報告の内容には、学問の自由に由来する『大学の自治』を基礎に教育研究を発展させるという観点、あるいは国立大学がもつべき自主性・自律性という観点から更に検討を要する点がある。とりわけ、いくつかの重要な論点について、選択的記述がなされ、また曖昧と思われる表現も散見される」といった記述がなされています。(詳しくは http://www.kokudaikyo.gr.jp/katsudo/txt_riji/h13_10_10.html)。
この点については、独立行政法人反対首都圏ネットワークから「そうであるなら、10月29日の国大協臨時総会の課題は、すでに述べた数々の批判点を踏まえ『中間報告』に対する国大協の立場を明確にし、『学問の自由に由来する大学の自治を基礎に教育研究を発展させるという観点』を十分反映させるべく、積極的な対応を取ることにある」といった指摘がなされました。
(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/011023stytokenkenkai.htm )。
国大協は、パブリックコメント締め切りと重なる10月29日に臨時総会を開き、本学阿部総長も出席しました。東北大学職組は「首都圏ネット」に依頼し、自らのパブリックコメントを配布しました。
総会において国大協は、「中間報告」に対し当事者組織として公に意見表明を行う段階に至ったとして、同日付で「意見」を表明しました。
(http://www.kokudaikyo.gr.jp/katsudo/txt_riji/h13_10_29.html)
その内容や態度に対し、たとえば次のような指摘がなされています。
国立大学協会からの意見書は、設置形態検討特別委員会の専門委員連絡会議がまとめたもので、10月29日の臨時総会で反対意見はあったが国立大学協会の意見として了承された、と言われている。法人化について財政的充実・自主性の拡大・組織や公務員型か否かなど未決着部分の確定などを要求し、最終報告に向けて国立大学協会の意見を尊重することを要望したものとなっている。財務省方針(2001.10.10の財政制度等審議会・財政制度分科会・歳出合理化部会及び財政構造改革部会合同部会第3回議事録、http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/01/a10-zaiseishingikai.html)が変らないとすると、相当の財政的基盤の拡大がなければ無意味とする意見表明は、事実上の法人化拒否とも言えよう。
差出人(国立大学協会会長)と受取人(調査検討会議座長)とが同一人物である異例の意見書を敢えて提出したのは、国立大学関係委員の主張の肝腎なところが中間報告に十分反映されなかったことに対する抗議であろうか。(以上http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/wr/wr-74-toc.html#[74-0-6-1])
その後国大協は11月13-14日に定期総会を開きました。報道によれば、翌15日に開催された国立大学長懇談会で、滋賀大、鹿児島大など多くの学長から、再編・統合方針に対する批判が行われたそうです。「教育大・学部大幅統合で地方国立大から懸念続出」(読売新聞11/16)、「教員養成学部統合は慎重に 大学側から意見相次ぐ」(NHKニュース11/15)。
この国大協総会に対して、東京大学職員組合が呼びかける要請行動が行われました。また首都圏ネットは声明「理念・展望・未来なき『再編・統合』と『トップ30』」を提出し、両計画を断固として拒否するよう訴えています。以下、引用します。(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/0113syutkenkai2.htm)(強調は引用者による)
国大協総会は、国立大学法人=独立行政法人化問題に加え、遠山プランが強制する「再編・統合」「トップ30」という二つの問題に対し、国立大学の連合体(Federation)として、明確かつ毅然とした対応を取らねばならない。
文科省は、(1)2002年度をめどに再編・統合計画を策定する、(2)学部レベルの再編・統合に踏み出す、(3)公立・私立大学との再編・統合、地方移管も検討する、と伝えられる(『読売新聞』11月7日付)。これは、6月の遠山プラン策定時より、いっそう具体的に年度を明示した上で、大学の統廃合、地方移管を提起したものである。ここから明らかなことの第一は、文科省は高等教育財政を拡充するつもりは決してない、ということである。遠山プランは「大学改革の一環」などではなく、あくまで行財政改革の文脈にある、ことを銘記しなければならない。
現在進行している単科大学の統合、教員養成系大学・学部の統合にはいかなる理念があるのだろうか。文科省はまず、単科大学を形成した理念、単科大学をほとんど消滅させようという政策転換の理由を示さなければならない。教員養成系についても、計画養成の名の下に各県一教員養成系大学・学部を設置した理念、それを県域を超えて統合する理由、新課程設置の理念、一転して新課程を分離する理由などを自ら示さなければならない。政策を自己批判すべきなのは文科省自身である。
「再編・統合」には、教育と研究についての展望がない。教育と研究にスケールメリットがあるなどと、誰が検証したのだろうか。教育と研究のあり方を真摯に検討しないまま、再編・統合を自己目的化する文科省の方針は、個々の教育・研究分野はもとより、大学の存在自体を根底から覆す意味を持つ。文科省は再編・統合を通じて大学の「経営基盤」を強化する、と説明しているが、これもまた高等教育財政の削減を自認した説明に他ならない。再編・統合に教育、研究上のメリットがあるか否かは、文科省ではなく、教育と研究の主体だけが判断できるのである。
再編・統合は、「選別と淘汰」の実現である。再編・統合を通じて、多様な教育と研究の主体は破壊される。再編・統合によって教職員の削減が目指される。再編・統合は、経費削減を前提としている。文科省は、15日の国立大学長懇談会で、再編・統合にあたって、(1)教育面の充実、(2)地域貢献、などを重視するよう方針を示すという(共同通信11月6日付)。これがリップサービスに過ぎないことは、文科省がこの間一貫してこの二つの側面について抜本的な財政的支援をすると述べていないことからも明らかである。文科省の方針は、おそらく「教育トップ30」「地域貢献トップ30」といったかたちで競争的資金を選別的に配布することだけであろう。ここでも大学間の協力は大学間の競争に置き換えられるにすぎない。
「トップ30」は大学の活力を低下させ、教育と研究を歪めるものである。文科省は、既存の大学間の序列構造を変える気などない。トップ30なるものが大学院の専攻分野を選出するものである以上、大学院重点化という差別化を前提としている。文科省は、各地で「トップ30」は大学間の序列を突き崩すための政策だ、と説明しているが、これはタメにする議論であることは明白である。
「トップ30」は、大学を企業社会の下僕とする政策である。トップ30が大学の企業化と産学連携の推進、重点四分野への研究投資の一貫であることは論をまたない。教育・研究の「高度化」「重点化」が何を目指すものであるかは、もはや明白であろう。貧困な高等教育政策はそのままに、大学から人的・知的資源を引き出すこと、それが「トップ30」の本質である。
「トップ30」の資金は、どこから来るのか。「トップ30」への重点投資の原資である211億円は、国立学校特別会計や私学助成とどのような関係にあるのか、文科省は明確な説明を行っていない。これは「縮小の中の特化」「縮小の中の重点化」という政策ではないのか。
「トップ30」によって、大学内の再編、大学内の競争、大学内の選別と淘汰が進行する。多くの大学では、「トップ30」選出を目的として、教育と研究の組織を組み換え、「重点分野」に特化しようという動きが見られる。これは、学問のあり方を歪めるだけでなく、教育・研究分野や教員間に大幅な格差を持ち込むものである。このような政策は大学内でモラル・ハザードを引き起こすことは明らかである。
国大協は、大学間の協力を目的として設立されたはずである。大学間の協力を競争に置き換え、文科省の選別政策に追随するならば、国大協の存在意義さえ問われかねない。大学の未来は、「再編・統合」「トップ30」にはない。国大協がなすべきなのは、まず文科省の政策を厳しく批判し、大学間の協力を促進するシステムを対置することである。本国大協総会の意義はまさにこの点にある。
宮城県では毎年、小学校から大学までの教員が一同に会しての教育研究集会が開かれます。今年も11月10-11日の両日、仙台市茂庭荘において「教育研究宮城県集会」(主催:宮城県教職員組合協議会)が開催されました。第一日目の特別分科会「国民のための大学づくり」には東北大学職組から教文部長ほか2名が参加し、宮城教育大学職組(田中武雄委員長以下4名)や県内の高校教員等7名の方々と交流を行いました。以下はその記録です。
分科会は、参加者の自己紹介から始められました。所属等に加え、どのような問題意識で集まったかを伺ったところ、大学側(7名)では現在の厳しい状況について広く認識して頂きたい、高校側(6名)では大学側のナマの情報を知る機会が少ないので、といった傾向が見られました。また、御子息が高専に通っているという小学校教員の方から、高専の教育現場における封建的実態の指摘があり、集まった方々から思いつく範囲の助言がなされました。
次に宮城教育大学の田中武雄さんより、レポート「国立大学の『独立行政法人化』と教育大学・学部の“再編・統合”」が報告され、質疑が行われました。田中レポートでは、まず(1)6月13日の国立大学協会(法人化を大学の自律性拡大や教育研究の質的向上の契機として容認する方向)、(2)9月27日の文部科学省調査検討会議が出した「中間報告」(学外者の運営参画や評価システムの導入などを提言)と、それに対する全国大学高専教職員組合や日本科学者会議の大学問題委員会などの批判を経て、(3)11月6日の文部科学省「あり方懇」(教育系学部等の統合を促す最終報告案を形成)に至る、国立大学の再編・統合の流れの中で教育系学部等がその先駆けとなっている状況が指摘されました。そして、宮城教育大学は、既に6月11日発表の「遠山プラン」時点で地方移管(県立大へ統合)の対象ともされており、北東北地区の各大学(弘前・秋田・岩手)で統合が具体化しつつある現在、宮教大としては福島・山形両大学教育学部との統合模索が必至であろうという状況が説明されました。
宮教大に関わる状況報告に続き、全国的な再編・統合の状況も報告されました。「トップ30」の圧力のもと、静岡大学や金沢大学では教育学部廃止、岡山大学教育学部では兵庫教育大学との統合、といったことを当該教授会が決定せざるを得ないということです。本来全学的な場(評議会など)で検討すべき学部の統廃合が、当該教授会で決定されること自体、前代未聞のことです。こうした動きは、多くが大学側の都合によるもので、果たして学生や地域にとって望まれる方向かが問われる、という問題提起がなされました。
質疑では報告者以外へも、基礎的な事項や現状認識について、活発な発言が飛び交いました。いくつかの例を挙げます。
問:宮教大の様子は分かった。東北大学は?
答:部局により温度差がある。任期制や公募制、専攻再編を念頭に動いているところから、ほとんど話題にならないところまで様々。
問:「トップ30」の基準は何か?
答:国際競争力という言い方がされている。
問:独法化により大学が減るのか?
答:数が減るのは先の話で、まず教育の質の低下がおこる。
問:独法化すると身分はどう変わるのか?
答:公務員型と非公務員型の両案併記で議論している最中である。
議論の中では、「国立大学の学費は昔ほど安くないので、仮に国立大学が無くなるとしても一般の人々の関心はそれほど高くないのでは」という、国立大学の存在意義を直裁に問うような発言もあれば、「『トップ30』など、できるはずがない。国立大学が30に減れば進学率が下がって国民が納得しない」という全くの誤解(「トップ30」は国立大学を30残すというのではなく、30大学に研究資金を重点配分するというプラン)が、かえってこの問題の認知度の低さを浮き彫りにするようなこともありました。
今後の展望につながるような発言としては、北海道教育大学の岩見沢校について、札幌校への吸収が知られるや、地元で反対運動が沸き起こった例を挙げ、地域に支持されるような活動、ローカルに徹する選択肢の提言がありました。その他、「東北大学は『トップ30』に残らない方が発展するし国民の支持をうける!」「はやりの法学部ロースクール化はともかく、経済学部ビジネススクール化はカスしか残らない!」 など率直な放談は、この分科会が実に自由な雰囲気に満ちていたことを示すものでしょうか。
ともあれ全体を通じて、文部科学省の狡猾さや、それに踊らされる側の滑稽を通り越した悲惨さが共通認識となったように思われました。
与えられた時間が少ないこともあり、議論をまとめることより、種々の意見を出して考える機会を作ることに力点をおきました。その範囲内では成功だったと言えるでしょう。同時に、こうした活動を一過性のものにせず、大学人が外部の声を受け入れ、共に考える場を持ち続けることの重要さを感じさせられました。(『宮城の教育2001』掲載予定)
小中高校における「教育改革」の矛盾は、むしろ大学より深刻です。新学習指導要領作成の責任者に名を連ねる三浦朱門氏(前教育課程審議会会長)は、「今まで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった。これからは落ちこぼれのままで結構で、そのための金をエリートに割り振る。エリートは100人に1人でいい。そのエリートが国を引っ張っていってくれるだろう。非才、無才はただ実直な精神だけ養ってくれればいいんだ」等の発言をしたと伝えられます(『現代と思想』6月号)。文部科学省は、30人学級と、それに伴う教員定数改善は抑制し、少数のエリート養成のため、小中学校に対しては全国で1000校を指定して習熟度別授業・小学校高学年での教科担任制を実施する。高校では全国20校をスーパーサイエンススクール・スーパーイングリッシュランゲージハイスクールと指定して研究実践する201億円の予算をつける。まさに「100人に1人だけに金をかける」教育が進められる中で、大学の役割が問われています。
上記田中レポートにあるように、その後、教員養成系学部等の統合問題が急展開してきました。宮城教育大学職組では、12月5日(水)に同大学4団体(生協、学生自治会、職組+オブザーバー院生会)で構成する「豊かな学生生活をきずく会」主催で浦野東洋一東京大学教授による講演会を開催し、対応を検討します。彼らの直面する問題が、我々にとっても決して他人事でないことは言うまでもありません。 東北大学職組でも、12月8日(土)に東北地区国立大学協議会の検討会として、品川敦紀山形大学教授(全国大学高専教職員組合中央執行委員)の講演「『中間報告』をどう読むか」および検討・交流会議を催します。弘前・秋田・岩手・山形・宮教・福島の各大学からも参加が見込まれます。今後の具体的な活動を、連帯して進めていくために、皆様の注目と協力が必要です。