1998.10.28発行
東北大学職員組合教文部 発行
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今年6月末に大学審議会「中間まとめ」が出されました。この「中間まとめ」は、大学の役割として「科学技術創造立国のための人材養成」を第一に掲げ、競争主義に著しく傾倒した教育観、学問観を打ち出したものです。この大学改革の方向性は、高校、中学、小学教育に重大な影響を与えるものと危惧されます。
そこで、一連の「教育改革」の問題点を明らかにし、国際平和、人権と平等のための高等教育、中等教育を目指した「教育改革」の理念、方策を模索する「教育改革あり方シンポジウム」を、中高の先生方や教育関係団体と共に開催しましたので、その内容を報告しました。
片山知史(東北大学職員組合教文部長)
出浦秀隆(宮城県高等学校教職員組合執行委員長)
大学審「中間まとめ」が出されている状況であるが、小中高校も全く共通した問題を突きつけられている。小中高校大学の教職員が率直に話し合い、一緒に考える機会というのは極めて少ないが、その意義は大変大きいと考える。
中等教育の子供達を巡る状況は、いじめ、不登校などの問題が深刻化している。これらは長年の政府・文部省の教育行政の作り出した産物であり、競争と管理の政策の破綻を意味していると認識している。高校においては、一部エリート高校を除いて、ほとんどの高校生が高校入試で心がズタズタになっている。さらに各校、大学合格率向上第一主義となり、その中でさらにズタズタにされている。大学に入ると虚脱感で向学心が無くなってしまっているという声をよく聞くが、実は高校に入る時点で元気が無い状況である。大学は収容力を大きくし、入り口をもっと広くして欲しいという希望を持っている。
大学審「中間まとめ」を読んだ時、その内容が中等教育に関する審議会答申と一寸違わないことに気がついた。それだけではなく、これら答申は財界経済界シンクタンクの報告書と非常によく似た内容である。財界の人材養成路線の延長線上に教育関係審議会答申が位置づけられることは間違いない。この度、有馬前会長(現自民党参議)に替わって中教審会長に根本二郎氏が就いた。彼は長年日経連会長として、賃金抑制と労働者支配の指令官として指揮を取ってきた人間である。異例の事態である。彼が議長を務める平成10年度労働問題研究委員会報告は「企業の国際競争力は最終的には人材によって決まる」という認識を示し、さらに「幼児期から多様な体験を通じて、自他の個性や能力の差異を理解してこそ、真の自立性も生まれてくる」と、人間は生まれながらに優劣があるということを露骨に表現している。社会経済生産性本部(亀井正夫会長)の「中間報告(1998.7)」も「人材は、企業にとって最も重要な経営資源」という基本的立場で各論はほぼ同じである。景気回復の道具として教育を考えていることが、緊急提言した理由もうかがえる。
一方、行財政改革の一環として、高校の学級を40人で統一するという方向が打ち出されている。そうすれば、千校以上の学校、二千七百人以上の教員を削減することができるという案である。今こそ、政府財界による人材養成のための競争・教育ではなく、人間そのものを育てる、成長を保障するための教育観、人間観、学校観を打ち出す必要がある。 (資料1,2 参照)
高橋 満(東北大学教育学部助教授)
先ほど「中間まとめ」の批判的検討、その「まとめ」の財界との関連や受験、カリキュラムを通しての高等学校との接合など具体的な問題提起があった。私の話はこれと比べますと雑ぱくな内容になるが、これらを国際的動向に位置づけつつ私たちのめざす「21世紀の大学像」について問題提起をしたい。
今日は、まず、我が国を含めて国際的に、なぜ、いま高等教育改革が必要となっているのか。その基本的な改革のパラダイムがどのようなものなのか。これを私なりに整理したい。その上で、ちょうど10月5日から今日までの日程でユネスコの国際会議「21世紀の高等教育」が開催されている。この国際的動向といかに連動しつつ我が国の改革が進められつつあるのかを紹介してみたい。
私は、いまの大学改革を基本的な特徴づけをするとすれば、「高等教育ビックバーン」という表現が適切かと思っている。ユネスコとの関連は、まだよく整理されてなかったり、確認できないところもあるのですが、まだだれも指摘していないし検討もされていないので、現在の高等教育改革を批判的に検討するための素材として意味をもつものと思う。
我が国を含め、あるいは国際的視野から見ても、高等教育改革がいま必要とされ、かつ、「中間まとめ」のような内容となる社会的基盤がある。それが大学のユニバーサル化であり、それがもたらしつつ3つの危機とこれに対応するパラダイム転換である。
まず、危機から見ていく。
大学のユニバーサル化が否応なしにすすんでいる。2009年には「大学全入の時代」がやってくることが予想される。経済界は苦々しく思っていると思うが、国際 的にも、とくに先進諸国ではもはや揺るぎない方向になろう。だれもが大学へaccessできることですから、大学の国民的開放、教育機会の均等という点からはまさに望 ましいことだが、これが悩ましい問題を突きつけている。
第1に、学生の「質」の低下の問題である。ご承知のとおり、受験競争の緩和は、わが国の高等教育政策のつねに主要な政策的課題だった。しかし、質の維持という点からみると、大学は労せずしてこの「選抜」的競争の利益を享受しつづけてきたのでないか。ところが、いろいろな要因が絡まり(受験生の減少と相即してすすみつつある高校教育の多様化、入試科目の少科目化・形骸化)大学生の低質化がすすみ、授業中の私語や無質問など大学教育が成立しえない。その空洞化はいまや底なし沼ともいわれる状態である。「ただ、こうした状況は、ある意味で大学と高校の接合を受験という契機だけでなく、カリキュラムの内容や質を含めて真剣に共同で議論する大切な契機になるという積極的に面もあることを指摘してきたいと思う。
第2に、大学卒業者の失業が深刻な社会問題となっていることである。60年以降、上昇をつづけた就職率は90年の87%をピークに下降し、97年には70%を割っている。エリート段階、マス段階では大学を卒業することが一つの市場価値をもちえた。しかし、そもそもユニバーサル化段階では卒業資格はこうした価値をもちえない。加えて、労働市場の悪化とともに大卒者のブルーカラー化や失業が問題となりつつある。今や大学は魅力の薄いものとなり、「手段としての大学」観も解体しつつある。これ以上すすむと、疎外された教育アスピレーションとはいえ存在していた教育への期待が解体する。つまり、教育制度そのものの正統性が疑問にふされることになるだろう。
第3に、研究の側面でも大学の相対的地盤沈下がすすんでいることである。企業や官庁の研究機関の充実が図られ研究の中心になりつつある。給与格差とも相乗して研究者の大学離れがすすみ後継者難が深刻になっている。いってみれば、大学は社会との関連において人材のインプットとアウトプット、そして教育と研究の両面で存在理由が厳しく問われる状況に遭遇しつつある。教育改革の中でも高等教育改革が重要な位置を占め、かつ具体的に改革がすすめられつつあるのも故ないことではないと思う。
こうした状況のなかで、大学の教育と研究の両面で質の維持・向上こそが21世紀にお ける死活の問題として浮かびあがる。皮肉混じりにいえば、だから大学審では大学の理念など議論している暇などなかったのである。周知のように、この改革の合い言葉は「競争」「効率性」「多様性」「柔軟性」などである。どうしてこのようなスローガンが、我が国で、そして国際的にも改革の基本的コンセプトとなるのか。
実は、すでに述べたように、国際的には高等教育改革の大きな課題は、高等教育への普遍的なaccess (universal access to higher education)なのである。もはやこれを前提として大学のあり方を検討しなければならない。我が国は、いやいやながらも、そして労せずしてこの国際公約をはたすことができることになるのであるが、ところがそれは泥沼のような学生の質の低下を伴うのではないかという危惧が現実味をましつつある。入り口がだめなら、大学内の教育と出口をなんとかしなければならない。その時に、政界・財界のブレーンである新自由主義の方たちの信念では、自由な競争が豊かなサービスと高い質を自動的に実現すると考えるから、だからこそ改革の中心的なパラダイムが「競争」のおかれざるをえない。
それともう一つ、全大教でもあまり明示的に検討されていない点であるが、教育の面に即してみると大きなパラダイム転換がある。それは大学を生涯学習体系の一環として位置づけるということ。それは「生涯学習への大学の対応」とはまったく質的に異なる。これまで大学・大学院は教育制度の最終にあって、それぞれの領域で完成教育を行うということが暗黙前提されていた。大学で力がついたのがどうかよくわからないが、卒業すれば就職をしてなんとかやっていけた。大学でもう一度勉強するなど考えていなかった。ところが、改革のパラダイムでは、大学も基礎教育であって(だから「課題志向型学習」となるのだが)、生涯学習の視点からまったく新たに大学の制度、カリキュラム、社会との接合を組み換えていこうとしているのである。リカレント型の教育制度として改変される。
この点をどう評価するかということは、実は大事なのだが、同時に難しい問題を含んでいると思う。私は、こうした転換は大学の開放という視点から望ましいことと考えているし、「構造的失業時代の処方箋」としても必然だろうが、そうすると、中等教育との接続も従来の在り方が大きく変わるし、「労働世界」との接合はいやがおうにも密接にならざるをえない。このパラダイム転換を是認するとすれば、改革の「多様化」とか「柔軟性」という方向性は、その具体的形態は別としてそれ以外の選択肢はありえないのではないか。
従来、教育政策・改革の国際的動向について検討する際に、日本と諸外国のうち一つの国を事例に比較を行い、その違いを明らかにするというアプローチが多かった。諸外国の政策や理念・理論、諸施策の進歩的側面を摘出し、これを立脚点として、我が国の後進性や政策の問題を批判するという方法である。この比較の方法は、教育政策が国家という枠組みのなかで、それぞれ独自に検討されつくられていくことを暗黙に前提としている。社会権として教育権は構成されるから、国民国家を枠組を前提とした考察はある意味で妥当性を有している。
今日の高等教育改革を中心とする教育改革についても、経済団体やそのシンクタンク、ブレーンの構想が直接的に政策に反映しているという指摘も妥当性をもっている。ただここでつけ加えておくと、より具体的に見ると、文部官僚内、官僚間、経済団体、労働、政党の間には、それぞれの論理があり、ときに対立・矛盾を含みつつネゴシエーションを繰り返しながら「妥協」をつくりあげていくのが現段階の政策形成の特質ではないか。そうしたアリーナの一つが「大学審」だと私などは最近まで考えてきた。
ところが、加えて、よりグローバルに政策形成を考えないともはや時代遅れとなっているということを実感している。今、世界的に同じパラダイムのもとに、かつ、歩調をあわせて高等教育改革が進められている。最初に述べたように、「高等教育ビッグバーン」だと考えてもらうとわかりやすいし、そうはずれたイメージにならないと思う。橋本元首相も言っていたように、「教育の改革」は6つの改革の重要課題として、他の改革と歩調をあわせてすすめられる。これはある意味では当然のことである。
ドイツのタイ、韓国など、 どこでも国際的競争の決定的契機として大学が位置づけられ、競争原理にもとづく改革が、まさに世界的に歩調をあわせてすすめられている。どれほど同じかを知るため、ドイツ版「21世紀の大学」を見てみる(資料3)。
フンボルト的理念のもとにあったドイツの大学は、我が国はじめ、アングロサクソン諸国の大学の制度化にも大きな影響を与えつづけてきた。しかし、そのドイツ大学がユニバーサル化によって崩壊をしつつある。その予兆は1985年の「大綱法」からあったのだが、1996年に出された「21世紀の大学」の内容を見てわかるように、国際的基準」への適応という名のもとにドイツ大学の「アメリカ化」が進行しつつある。
この要約からいくつかのことが指摘できるが、あまりにも「中間まとめ」と似すぎている。高等教育改革をめぐる社会の変化・条件=「知識社会」「情報化社会」、グローバル・コンペティションの担い手としての大学とその現状の問題・危機の指摘、改革の視点としての業績原理・効率性・柔軟性・競争、改革の諸施策の内容(カリキュラム改革、学生の成績評価の厳格化、業績原理に基づく予算配分、大学の財政的自律性強化、管理運営における専門化・強化、評価制度の確立)など、これは明らかである。
大学の大衆化・ユニバーサル化、グローバル・コンペティションなど、大学をめぐる内外の状況には日独共通する側面が多いのは確か。新自由主義的な思想にもとづきながらも、ドイツ的特殊性も見られる。とはいっても、高等教育改革がこれほどまでに同じ歩調ですすめられているのはなぜか。学生のレポートでも酷似しているものが時にあるが、そういうときはだいたい成績のよいのが模範解答を誰かが作り、それをできの悪い学生が引き写す。その模範解答をつくっているのがユネスコ。ただし文部省のカンニングはユネスコ水準よりも大分できの悪いもののように思える。ドイツよりましというのが私の評価ですが。教師としては、「できは悪くても自分で考えなさい」と指導したいところである。
ここで強調したいのは、文部省の悪質なところは、あたかも「大学審」の審議を通して政策の内容が作り上げられているかのようにしていることである。委員もそう思っていると思う。私などは、一生懸命議事録をコピーして、どのような議論をとおして「まとめ」が作られるのかを追っていた。気がつかない我々の水準の問題もありそうだ。もう一つ、文部省はユネスコの議論を知っているはずである。しかも、知っていながら、ユネスコの議論の一面だけをとりあげ、国際的水準での進歩的到達点を意識的にネグレクトしている。
ユネスコでどうのように国際的議論が集約されたのか(資料4)。1993年のユネスコ総会において、成人教育とともに「高等教育の包括的政策」形成の必要性が確認された。ここでとりわけ強調されたのは、21世紀に向けての社会の変化との相互作用のなかで、これを視野にいれつつ両者の変化の分析に基づきながら「21世紀の大学像」を議論する必要性である。社会変化の認識はほぼこの議論を下敷きにしている。これを受けつつ、各地域で国際会議を開催している。アジアは東京で開催されているが、あまり重要な会議と思った方は少なかったのではないだろうか。ユネスコの政策形成において、もちろん政府機関の役割は大きいが、成人教育などは非政府組織 NGOの影響力も実は大きな力をもっている。この点で、国際的な議論づくりや影響力の行使という意味で組合の問題意識や影響力はかなり立ち後れているといわねばならない。
もう一つ、会議の論点として4つのトピックスを提示し、これに焦点化して各国、地域での議論を組織している。各国の「21世紀の大学像」の枠組みが非常に酷似しているのも頷ける。
日本の「中間まとめ」、ドイツの「21世紀の大学」もこの国際会議に向けて、これとの関連のなかで議論まとめられ、内容が詰められているのではないかと思う。ユネスコの報告には日本の議論も影響を与えている。したがって私の見るところ、その評価は二面的であり、より詳細な検討が必要性を感じているが、以下では、「中間まとめ」と関わるいくつかの点に限り国際的到達点を紹介したいと思う。
第1に、新自由主義、経済的自由主義的視点を一面化した高等教育政策を峻拒している。「市場法則や競争原理は高等教育を含む教育には適用されるべきではない」「経済領域での国家の役割の後退という世界的傾向は、自動的に教育領域に拡大すべきではない」とはっきり述べられている。ここで強調されているのは国家の財政的支援の義務である。現在の国家と大学の関係の問題点を簡潔に「 too much state intervention and too little state」といっている。この意味で、大学の国家からのオートノミーの確立必然であるが、同時に、国家の財政的責任を強調している。
第2に、各団体等の意見書のなかで必ず指摘されていること、大学の理念である。日本の「まとめ」はドイツより「理念的」である。この点、ユネスコの考えは一貫している。大学は短期の視野から、かつ経済にのみ寄与するものではない。「大学の使命は、人類や人類社会の未来に貢献すること」と確認され、具体的には、教育と研究をとおして、1)社会的貧困・差別・不平等などの解消に寄与するという「社会的使命」、2)持続可能な発展、人権、正義、民主主義、平和や非暴力の文化に寄与するという「文化的・倫理的使命」、3)生涯学習の実現のために他の教育制度に寄与する「教育的使命」などがあげられている。
第3に、その意味で、21世紀の社会における大学の使命は大きなものがある。ユネスコがとくに強調していることの一つは、その決定的な役割を担うのは学生と教員・職員であるということである。とりわけ、若い学生の力に未来がかかっているわけだから、大学のあらゆる領域で、意志決定を含めて学生の参加をはかることが大切だと強調されている。さらに、教員・職員の質(技術的知識だけではなく、倫理性をふくめて)こそが試金石であるから、研修など継続教育が奨励されねばならないし、決定への参加が保障されねばならないし、その社会的地位の確立と向上が緊要の課題として確認されている。「大学の質」を真剣に問題とするのであれば、その大学を構成する人たちの質を高めるために努力を払うことは至極当然の道筋ではないだろうか。この点でも、教員の地位を低める「任期制」の導入を厳しく批判したいと思う。
「中間まとめ」は、高等教育改革にとどまらず、実は我が国の教育改革の方向を示す試金石であろうと私は考えている。自由主義的改革は、政界・財界・官界と基本的対立のない大学改革でこそ純粋に近い形で貫徹される恐れが大きい。
その内容は、「高等教育ビッグバーン」であり、日本の大学の「アメリカ化」である。アメリカの大学制度にも良質な側面が少なくないので、より正確にいうと、「アメリカ大学化」―「アメリカの良質なもの」=「中間まとめ」である。私たちが求め、議論しなければならないのは国際的水準での議論に基づく「21世紀の大学像」である。先に紹介したユネスコの大学の「教育の使命」のなかには、「すべての人のための生涯学習の補完」ということだけではなく、教育政策・改革の批判的評価とホローアップをはかりながら「すべての人のための教育」の実現をはかるという実践的・理論的役割が含まれている。この意味で、大学の組合にかせられた使命は理論的にも実践的のも大きなものがあろうと思う。
今回のシンポジウムは第一回ということで、第二回を中等教育に焦点を当てて開催する予定です。是非ご参加ください。
10月26日、ついに大学審「本答申」が発表されました。この本答申は「中間まとめ」の語句を手直ししただけで(実際この間、その程度の議論しかしていなかったことは、文部省のホームページの議事録を見てもよくわかります)、全く各団体の意見は全く無視されています。この答申を真面目に分析し検討するのもバカらしく思えてきます。教文部は、この答申に対しては「見解」というよりも「逆提言」をする方向で議論したいと考えています。この教文部ニュースにある高橋先生の報告は「逆提言」の素地を与えているものです。ご意見などございましたらお寄せ下さい。